それぞれの時代には、
それぞれの時代に合った考え方がある。
人はそれを常識と呼び、
日常の行動や思考の基準とする。
未来永劫その基準が変わらないのであれば、
それが一番なのかもしれない。
しかし、現実は変化し続けている。
科学技術の発展は留まるところを知らず、
今までの不可能を可能にしていく。
火は加工技術の可能性を広げ、
食文化を育て、鋳鉄や鍛造技術を発明し、
建築、機械、造船産業とその恩恵を生み出した。
航空機は、新たな海を渡る手段となり、
携帯電話の普及は、移動距離や時間の節約を実現。
さらに電子機器は小型化が進み続け、
それらと相乗効果を発揮しながら、
あらゆる情報を蓄積分散可能なインターネット社会が構築された。
人体機能を補助する視える義眼や、パワードスーツ、
とうとう人工筋肉まで創り出してしまった。
遺伝子や脳の仕組みは徐々に解析されつつある。
どれもこれも人間の歴史のほんの少しの間に
起こった出来事であることを忘れないで欲しい。
互いが互いに影響し合って新たな発見を呼び起こし、
累積算的に情報が蓄積されることで、
膨大な実現性の根拠となり、各分野の常識として定着していく。
自然であることが一番とされる事は多いが、
いつの日か自然の仕組みをも内包するような、
膨大なデータ整備が進んだ時代だと、
一体何を基準に世界は回るのか。
どんな時代が来ても驚きはしないが、
自然はありのままに在るだけだろう。
結局は、人がそれをどう捉え、
どう解釈するかだけなのだから。
仮想現実世界が、現実世界よりも有用性が高く、
居心地のいいモノになるのなら、
人の活動範囲は劇的に変化するはずだ。
一般的な時間的制約を受けているものであれば、
通勤通学、出張、会議、帰省、行列、平日休日、
当たり前だと思うものが実は不要だったなんて、よくある話だ。
現実に居るよりも現実となる新たな世界は、
静かに近づきつつあるように感じる。
そして、新しいと思っていたものさえもまた、
いつかは古いものとして歴史に刻まれるのだろう。