京都御所内へ足を踏み入れるのはおおむね蛤御門から。
ず~と閉鎖されていたのが、火事になって開門された。
よって蛤御門という異名がついた。
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蛤御門(はまぐりごもん)は、現在の京都御苑の外郭九門の一つ。本来の正式名称は「新在家御門(しんざいけごもん)」。門の形状は高麗門型の筋鉄門である。
御所の火災の際、滅多に開くことのなかった門がこの時だけは開いたため、固く閉じていたものが火にあぶられて開いたことをハマグリになぞらえて「蛤御門」という俗称が付けられたとされる。
いずれの火災時期とするかについては、宝永の大火(1708年)後とする説と、天明の大火(1788年)後とする説が挙げられている[1]。近年では寛文13年(1673年)年の火災後まで遡るとする説や、「開かずの門」は本来は現在の下立売御門であったとする説も挙げられている[1]。
元治元年7月19日(1864年8月20日)の蛤御門の変では門の周辺が長州藩との激戦地となった。現在でも門柱に命中した弾痕を確認することができる。
なお現在の蛤御門は、明治10年(1877年)から明治16年(1883年)にかけて行われた大内保存および京都御苑整備事業によって移設されたもので、それ以前は現在よりも30メートルほど東の位置に、南を向いて建てられていた。
今日は堺町御門から「侵入」。
- 朝寒の桂離宮の御門かな 成瀬正俊
- からたちの花の鎌倉西御門 皆川白陀
- 田螺鳴く二条御門の裏手かな 河東碧梧桐
- 観桜の蛤御門開けてあり 後藤比奈夫
- 元朝の御門あきたり二重橋 松根東洋城
- からたちの花の鎌倉西御門 皆川白陀
- 講書始め御門の松は雪に侍す 鳥野信夫
- 行きすぎて橘かをる御門かな 泊月
- 遠水鶏小菅の御門しまりけり 一茶
- 前駆(さき)ふれて柑子たわわに土御門 筑紫磐井 野干
- 遠水鶏小菅の御門しまりけり 一茶
- ゆるやかに田植用意の御門内 山本洋子
- 野ゝ中に土御門家や冬至の日 炭 太祇 太祇句選
- 遠水鶏小菅の御門しまりけり 一茶 ■文化七年庚午(四十八歳)
- 御門徒寺の相撲つぶるる 史邦 芭蕉庵小文庫
↑丸太町通り
Wikipedia「堺町通」
堺町通(さかいまちどおり)は京都市内の南北の通りの一つ。北は丸太町通から南は五条通まで。途中仏光寺通と高辻通の間で分断されている。
平安京には存在せず、豊臣秀吉による天正の地割で新設された通りである。 通り名の由来は、戦国時代に京都の町が衰退していたころには、このあたりが京の街と田畑との境界であったこととされる。
通りの北端に京都御苑の堺町御門がある。
江戸時代には通り沿いに多くの材木商があり、今も「杉屋町」・「丸木材木町」などの町名が残っている。
1時間ほど御所の南部地区で、九条邸跡、閑院宮邸、花山院邸跡(宗像神社)内を散策。
見学可能な屋敷内には入らなかった。
午後2時から小さな会合が、薩摩藩邸跡であったので、早めに家を出たが、
1時間では南の一角さえ見つくせない。
御所南部の紅葉
閑院宮邸
建物は明日紹介
九条家 江戸初期には若木だったか
櫨紅葉
↑平成の木だろう。