先日、伊那商業学校の記事を掲載しましたが、その記事を観た職場の先輩から思わぬリアクションが。

 【過去ログ】 「高遠ぶらり」を楽しむ ~伊那商業学校跡地に行ってみました~

 「私の父が伊那商業学校の卒業生で、近くの伊那飛行場建設に学徒動員されたことがある。伊那商業学校の記事は興味深かった。」

 えーっ!

 伊那商業学校のすぐ近くに伊那飛行場があった?

 案内板があるというので、ネットで大体の場所を調べた私は、3月8日(土)、現地に行ってみました。

 伊那商業学校の東方、上の原地籍にあることはわかったのですが、全然場所がわからない。

 1時間ほどしてやっと見つけました。

保育所の南

 上の原保育所の真南(地図)に案内板が一枚、そっと立てられています。

案内板見つける

 これはわからない。

 なになに?

案内板1

 昭和18年8月から沢2つを埋め立てる大規模工事が開始され、学徒動員が行われたと。

 そして、昭和19年2月には、米軍の空爆を避けるため、埼玉県の「熊谷陸軍飛行学校」の「伊那分教所」が開設された。

 伊那飛行場では、少年航空兵や見習士官などが3ヶ月の訓練を受け、中には特攻隊員となる者もいた。

 そして、昭和20年2月からは戦闘機づくりの工場となった…

 何ということでしょう。

 上の原保育所という最も平穏な場所からは想像できない歴史に、言葉を失いました。

 その後、学徒動員について調べましたら、こんな資料が出てきました。

「国民勤労報国隊編成者職氏名並出動人員内訳」から抜粋

伊那中学校(現伊那北高) 900名
(5/15~6/14毎日150名、6/15~7/14毎日300名、7/15~8/14毎日450名)

伊那商業学校       440名
(〃毎日160名、〃毎日160名、〃毎日120名)

飯田中学校(現飯田高)  300名(宿泊)
(5/15~6/14毎日200名、7/15~8/14毎日100名)

諏訪中学校(現諏訪青陵高)300名(宿泊)
(6/15~7/14毎日200名、7/15~8/14毎日100名)

伊那国民学校(高等科。12~13歳)(7日間、250名)
(6/15~7/14毎日250名)
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      計     1940名(250名)

※ 出典:「伊那谷の青い空に」(久保田 誼 著)銀河書房

 このほか、上伊那農学校、赤穂農商、旧制松高、長野師範などからも学徒動員され、さらには朝鮮人強制労働も課せられたそうです。

 その後、昭和20年8月に終戦となり、伊那飛行場が戦地となることは避けられましたが、大変悲しい歴史がここには横たわっています。

遺構

 案内板の後ろには、飛行機の格納庫の遺構が残されています。

案内板2
北を観る

 案内板の解説では、滑走路の位置がよくわかりませんが、ここが格納庫とすると、現在の保育所の辺りから北を向いて飛行機が飛び立ったのでしょうか。

開拓碑

 上の原保育所の周辺を歩いていると、公民館敷地に開拓碑がありました。

 飛行場廃止の後、昭和21年7月からこの地に入植…(※農地解放の時代です。)

 その後、時を経て閑静な住宅街となったようです。

全景

 私、伊那に赴任して2年になりますが、こうした歴史については知りませんでした。

 戦争という歴史と、その地に平穏な日常が営まれていることとのギャップを目の当たりにすると、これは語り継がねばならない、忘れてはならない歴史だと感じさせられます。

 伊那にいる皆さん、一度はこの地を訪ねてみてください。 (momo)