日没が近くなり、数千人ということはない、万はいようかという観蛍客が松尾峡に向けて歩き出しました。
協力金300円を支払う券売機にも長蛇の列。
例えは悪いのですが、あたかも競馬のGⅠレースを迎える競馬場のようではありませんか。
券売機の上に貼り紙が。
どうやって数えているんだろう。
松尾峡への道には提灯が下げられ、一茶の区が掲げられています。
「花の陰(かげ)あかの他人はなかりけり」
桜の花を見ながら、楽しみ方は人それぞれではあるが、花を見るものはどこかでつながりあっている、という文政二年の句だそうです。
桜はほたるに変われど、ほたる祭りの様子をよく表していますね。
人々は、提灯に導かれ、松尾峡に向かいます。
日没間近となりました。
遊歩道を観蛍客が埋め尽くし、ほたるが出るのを今か今かと待ちわびています。
※ この一枚は、高感度モードで撮影しました。
するとアナウンスが。
「ほたるが光るのは夜8時からです。」
うっそー、そんなのわかるわけ?w
時刻は7時半。
ひとつふたつ、光りだしました。
※ クリックし拡大してご覧下さい。
そして夜8時。
すると、数十匹のほたるが目の前に現れたではありませんか。実に幻想的です。
辰野のほたるはプロだなぁw
(※ ほたるは強い光を嫌うので、ある程度暗くなってから活動するのです。)
私の持っているコンパクトデジカメ (お年玉年賀ハガキで当たった記念の品) では、何度撮っても数十匹をまとめて撮影することができません。
やはり一眼でなくてはダメですね。
電車があまり便利でないので、早々に帰ろうとするも、あとからあとから大勢の観蛍客が。
やっとの思いで辰野駅に到着しました。
結構、歩いたな。
<幾度の危機を乗り越えて>
辰野町は、古くからほたるの名所として知られていました。
特に明治末期に鉄道が開通してからは、多くの観蛍客を集めましたが、大正中期になると、ほたるの乱獲などにより、数が急激に減少しました。
そして、地元小学校や青年団が中心となって保護運動が展開されるのです。
昭和23年、戦後復興の中で、ほたる見物は「ほたる祭り」として開催されます。
翌24年には、辰野町商工会が一般から「辰野音頭」と「ほたる小唄」の歌詞を募集し、中山晋平の作曲で踊りをつけて披露されました。(※ 今年から、「ぴっかり踊り」が始まるそうです。)
30年代後半になると、天竜川の水質汚濁などによりほたるの発生数は激減し、祭りの存続が危ぶまれることとなります。
町は、発生地の農業用水に沢水を流入させたり、ほたるの養殖池を完成させるなどし、ほたるを年々増やしてきました。
そして、今年は11万匹の発生が予想されています。
ほたる祭りとはいっても、ただほたるを観ているだけではない。
地域の方々の長年の熱意が結実し、現在のお祭りを形作っているんですね。(終わり) (momo)