この暴走こそがストーカーの本質であると私は考える。彼らがストーカーになるとき、それまで自分の属性として持っていた社会的な仮面をすべて剥ぎ落とす。そこに残るのは、むき出しの生物としての存在だけである。それまでまとっていた社会的な地位や学歴、生まれてから起こった様々な出来事もすべて意味を持たなくなる。彼の目に入るのは、獲物としての被害者の姿だけだ。
ストーカーの目に映る犠牲者は、社会的な存在としての人間ではない。ただ一個の生き物としての姿なのである。ストーカーと被害者の戦いは、生き物と生き物の戦いとなる。そこではどのような手段でも用いられてしまうのだ。(pp230-231)
岩波明(2006)『狂気の偽装 精神科医の臨床報告』新潮社、
アーレントは、アイヒマンの「無思想性」を指摘している。自分の頭で考え、思索し、反省する営みを停止させたことが「アイヒマン」を生んだというのである。だが、それはむしろ「ガラスのドーム」の中にいたというポムゼルにこそあてはまるのではないだろうか。ポムゼルは多くを知らなかったし、多くを知りたいとも思わなかった。不用意に知って、良心の呵責に苛まれることを避けようとした。多少の矛盾やおかしなことがあっても、それらを突き詰めて厄介な事態に巻き込まれたくないという思い、一種の防衛機制が働いていたのだろ。そこに思考の停止状態が生じる契機があった。(pp256-257)
石田勇治「『ゲッベルスと私』刊行に寄せて」、ブルンヒルデ・ポムゼル、トーレ・D.ハンセン(著)、森内薫、赤坂桃子(訳)、(2018)『ゲッベルスと私 ナチ宣伝相秘書の独白』紀伊國屋書店
ドイツ女性が感情を爆発させたのはユダヤ人に対する根深い嫌悪によるのだと理解することはできるし、ナチス親衛隊警備兵の行動は予期できない慈悲の行為だったのだと思うことはできる。しかし、いまだにこれら二つの出来事を納得できる形でひとつに結びつけることができない。ただ、ホロコーストについても、ドイツ人の犯した罪についても、あるいはドイツ人が何を知っていて何を知らなかったのかについても、一般化したところで、いかなる力によって世界史上もっともひどい悲劇のひとつを生み出したのかを理解することなどできないという、ありふれた結論にいたるだけである。また、そうした一般化は、虐殺や、そのほかのこれまで生きてきた間に起こった多くの大量殺人を人間の中にある何が企て、実行させるのかを説明するのにも役立たない。当然、なぜ、こうしたひどい出来事のただ中で、多くの人々はいとも簡単に罪を犯せるのに、ある人々は、それらに抗する、あるいは、少なくとも恐ろしい罪を起こさない強さや倫理的勇気を持ちうるのかという疑問に答えることなどできないのだ。(pp118-119)
これらの、そしてほかの似たような体験が、人権に関する活動の中でたびたびあった。こうしたフラッシュバックを見ながら、そして人権保護裁判官、あるいは調査官として行動しながら、私はわれわれ人間の何がそれほど残酷で残忍な――私は、人間が犯すこうした恐ろしい行為を説明するのに、あえて「非人間的」という言葉は使わない――行動に駆り立てるのだろうと考えていた。恐ろしいことに、多くの場合こうした行動をとるのは、サディストでもない普通の人々で、夜になれば家族のいる家に帰って手を洗い、まるでほかの人と同じような仕事をしてきたかのように、家族と一緒に夕食をともにするのだ。もし、人間がそんなに簡単に、手についた、自分の仲間である人間の血を洗い落とせてしまえるのだったら、未来の世代が過去に行われた大量虐殺や集団殺人を繰り返さないようにする望みはあるのだろうか。そう考えると恐ろしい。ホロコーストは、単に、次の大量虐殺のための練習にすぎなかったのだろうか。とくに世界のどこかで新たに残虐な行為が行われているのを見たり聞いたりするたびに、私は、こうした思いに悩まされる。けれど、多くの場合、希望を捨てず、法や法制度を作ることで私たちが経験したようなひどい過去を繰り返さないことができると信じるようにしてきた。私は、これまで自分の仕事のほとんどを、この目的のために費やしてきた。(pp248-249)
トーマス・バーゲンソール(著)、池田礼子、渋谷節子(訳)、(2008)『幸せな子 アウシュビッツを一人で生き抜いた少年』朝日新聞出版
汽車が止まっても、仲間がひとり降りてこない。
ふたたび乗ったとき、その人は死んでいた。それで窓から出した。
そんなことが何度もあるうちに、わたしはペローの童話『おやゆびこぞう』を思いだしていた。森に行くとちゅう、小石を点々と置いていったので、それを道しるべに家へ帰り着けたというくだりがあるのだ。
その小石みたいに、わたしたちは線路に亡きがらを点々と置いていく。(p225)
フランシーヌ・クリストフ(著)、河野万里子(訳)、(2017)『いのちは贈りもの ホロコーストを生きのびて』岩崎書店