死ぬときに聴こうと決めている音楽があって、

それは宮川彬良先生の「室内楽のためのソナタ〈ブラック・ジャック〉」なのです。

きのう、もう死のうかとプレイリストを開いて、聴いていたら、

その「ブラック・ジャック」の音源って、2007年発売のCDのやつだったんですよね。

2010年代後半にコンサートで聴いた「ブラック・ジャック」とは、また別の演奏なわけですよ。

最近のは、熟してより物語的になった演奏だと、わたしは思っているのです。

そしたら、このCDの音源を聴きながら死ぬよりも、

よりフレッシュな「ブラック・ジャック」を聴いて死にたくなったわけです。

今日まだこれ死ねへんやん、って。

単純に、その理由で昨日は死ぬのをやめました。

こういうこともあるねんなあ。

 この暴走こそがストーカーの本質であると私は考える。彼らがストーカーになるとき、それまで自分の属性として持っていた社会的な仮面をすべて剥ぎ落とす。そこに残るのは、むき出しの生物としての存在だけである。それまでまとっていた社会的な地位や学歴、生まれてから起こった様々な出来事もすべて意味を持たなくなる。彼の目に入るのは、獲物としての被害者の姿だけだ。

 ストーカーの目に映る犠牲者は、社会的な存在としての人間ではない。ただ一個の生き物としての姿なのである。ストーカーと被害者の戦いは、生き物と生き物の戦いとなる。そこではどのような手段でも用いられてしまうのだ。(pp230-231)

 岩波明(2006)『狂気の偽装 精神科医の臨床報告』新潮社、

 

  

 アーレントは、アイヒマンの「無思想性」を指摘している。自分の頭で考え、思索し、反省する営みを停止させたことが「アイヒマン」を生んだというのである。だが、それはむしろ「ガラスのドーム」の中にいたというポムゼルにこそあてはまるのではないだろうか。ポムゼルは多くを知らなかったし、多くを知りたいとも思わなかった。不用意に知って、良心の呵責に苛まれることを避けようとした。多少の矛盾やおかしなことがあっても、それらを突き詰めて厄介な事態に巻き込まれたくないという思い、一種の防衛機制が働いていたのだろ。そこに思考の停止状態が生じる契機があった。(pp256-257)

石田勇治「『ゲッベルスと私』刊行に寄せて」、ブルンヒルデ・ポムゼル、トーレ・D.ハンセン()、森内薫、赤坂桃子()(2018)『ゲッベルスと私 ナチ宣伝相秘書の独白』紀伊國屋書店

 

 

 

 ドイツ女性が感情を爆発させたのはユダヤ人に対する根深い嫌悪によるのだと理解することはできるし、ナチス親衛隊警備兵の行動は予期できない慈悲の行為だったのだと思うことはできる。しかし、いまだにこれら二つの出来事を納得できる形でひとつに結びつけることができない。ただ、ホロコーストについても、ドイツ人の犯した罪についても、あるいはドイツ人が何を知っていて何を知らなかったのかについても、一般化したところで、いかなる力によって世界史上もっともひどい悲劇のひとつを生み出したのかを理解することなどできないという、ありふれた結論にいたるだけである。また、そうした一般化は、虐殺や、そのほかのこれまで生きてきた間に起こった多くの大量殺人を人間の中にある何が企て、実行させるのかを説明するのにも役立たない。当然、なぜ、こうしたひどい出来事のただ中で、多くの人々はいとも簡単に罪を犯せるのに、ある人々は、それらに抗する、あるいは、少なくとも恐ろしい罪を起こさない強さや倫理的勇気を持ちうるのかという疑問に答えることなどできないのだ。(pp118-119)

 

 これらの、そしてほかの似たような体験が、人権に関する活動の中でたびたびあった。こうしたフラッシュバックを見ながら、そして人権保護裁判官、あるいは調査官として行動しながら、私はわれわれ人間の何がそれほど残酷で残忍な――私は、人間が犯すこうした恐ろしい行為を説明するのに、あえて「非人間的」という言葉は使わない――行動に駆り立てるのだろうと考えていた。恐ろしいことに、多くの場合こうした行動をとるのは、サディストでもない普通の人々で、夜になれば家族のいる家に帰って手を洗い、まるでほかの人と同じような仕事をしてきたかのように、家族と一緒に夕食をともにするのだ。もし、人間がそんなに簡単に、手についた、自分の仲間である人間の血を洗い落とせてしまえるのだったら、未来の世代が過去に行われた大量虐殺や集団殺人を繰り返さないようにする望みはあるのだろうか。そう考えると恐ろしい。ホロコーストは、単に、次の大量虐殺のための練習にすぎなかったのだろうか。とくに世界のどこかで新たに残虐な行為が行われているのを見たり聞いたりするたびに、私は、こうした思いに悩まされる。けれど、多くの場合、希望を捨てず、法や法制度を作ることで私たちが経験したようなひどい過去を繰り返さないことができると信じるようにしてきた。私は、これまで自分の仕事のほとんどを、この目的のために費やしてきた。(pp248-249)

 トーマス・バーゲンソール()、池田礼子、渋谷節子()(2008)『幸せな子 アウシュビッツを一人で生き抜いた少年』朝日新聞出版

 

 

 汽車が止まっても、仲間がひとり降りてこない。

 ふたたび乗ったとき、その人は死んでいた。それで窓から出した。

 そんなことが何度もあるうちに、わたしはペローの童話『おやゆびこぞう』を思いだしていた。森に行くとちゅう、小石を点々と置いていったので、それを道しるべに家へ帰り着けたというくだりがあるのだ。

 その小石みたいに、わたしたちは線路に亡きがらを点々と置いていく。(p225)

フランシーヌ・クリストフ()、河野万里子()(2017)『いのちは贈りもの ホロコーストを生きのびて』岩崎書店

学生さんから「予定がなければ見にきてください」と渡された、12月18日のコンサートチケット。

このへん、なんかあったよなあと思ったら、RAG FAIRのデビュー記念日前日だったんだよねえ。

何年か前は赤坂のディナーショー行ってた日だ。

たのしかったなあ、ディナーショー。

 

いまでも何の気なしに聞いて心地よい音楽はRAG。

宮川彬良先生の音楽は宇宙に投げられる快感があるけど、RAGはまたちがった心地よさにて。


 ロウニーは目をしばたたいた。わけがわからなかった。そして、今回は、わからないことをそのままにするつもりはなかった。「仮面をつけているときにしゃべっちゃいけないのは……ぼくがうまいからなの?」

「そのとおり」トーマスがいった。「魔法にかけられたかのように、おまえの言葉にあわせて世界が変わってしまうかもしれない。おまえが信じていることが伝染病のようにほかの者にうつる。巨人の台詞を口にしたとき、おまえは自分が巨人だと信じていた。そして、実際に巨人になったのだ。観客もおまえを巨人だと思った。むろん、観客には分別があったが、それでも、おまえを巨人だと考えた」(p.124)


「だが、警備隊は何をそんなにおそれているんだ?」

 ロウニーは自身なげにいった。「川の盗賊かなあ」

 ロウワンが声をあげて笑った。

「いいや、ぼくがいいたいのは、そういうことじゃないんだ。観客の前で、ちょっと何かのふりをするだけなのに……いや、いいんだ。ただ、一座のほかの連中にもう少し勇気があったら、って思っただけさ」(p.180-181)


「いいや」セミリが答えた。「これは〈川〉だ。そして、仮面でもある。わたしらは、〈川〉に語りかけ、〈川〉に顔と名前を与えなくてはならなかった。そうすれば、洪水でわたしらをおぼれさせないようにと〈川〉に頼むことができるからね。そう、それが始まりだ。これは、わたしが作ったいちばん最初の仮面だよ」(p.195)


「誰も」トーマスがいった。「〈川〉は、誰かがかぶれるような仮面ではない。もはや、誰にもかぶれない。かぶろうとすれば、逆に、かぶろうとした者が仮面にかぶられる。仮面のほうがはるかに古く、はるかに強力だからだ。〈川〉は役者を満たし、やがて、役者はおぼれる」(p.197)

ウィリアム・アレグザンダー(2015)『仮面の街』東京創元社


『影なき者の歌』の姉妹編を読んだらこっちもすごかった。

こういうこと、考えててもいいんだよな。


もう一冊。

ミシェル・ロスタン(2012)『ぼくが逝った日』白水社、これもよかった……!

8月30日、宮川先生のオペラ『ブラック・ジャック』を観にいけなかったから、何か読まねばと脅迫されるかのように本を開いて、読み始めたらものすごくいい本だった。

著者のミシェル・ロスタン氏はオペラの演出家。息子を亡くしていて、その体験をもとにこの小説を書かれたそう(この本を今日読んだのは偶然なのですが宮川先生とちょっとかぶるところが)。

逝った息子視点で語られるお話。

切れ味のいい文体。


わたしは、わたしも、せめて何かを残して死ななければ、と思う。

 ルースはいたずらっぽくにやりとした。「『どっちが先か』なんて、興味をひかれるような問いじゃない。遠い昔、言葉と音楽はまったく同じものだったからだ。『どうして、それが言葉と音楽に分かれたのか?』という問いのほうがもっと興味深いと思うよ。もっとも、その問いの答えは知らない。だが、舟にたとえていうなら、航路図を読むために必要な羅針盤がある。つまり、手がかりがあるってことだ。それは、『言葉では伝えられないことを音楽で伝えることができる。言葉にはできないことを音楽で理解することができる。また、言葉を使って魔法やまじないをおこなうことができるのと同じように、音楽を奏でて世界をつくりなおすことができる』ということさ。このことを最初に学んだのだ船乗りたちだ」ルースは自慢げに指で自分の鼻先に触れた。(p.127)


「今日はカイルの命名日です」ボンバスタが高らかにいい、声に出していったことでそれが真実になった。(p.205)

影なき者の歌/ウィリアム・アレグザンダー
¥1,836円 Amazon.co.jpより

ことばって何だよ、といまだにずっと思っています。

きっとここまで発展したのは意志があったから。

でも、じゃあ、最初は?

ルースの言う、「どうして、それが言葉と音楽に分かれたのか?」は、とても、世界を明るくする問いだなあと思う。

森羅万象はひとつのものだった。

どうしてそれが分かれていったのか。

分かれて分かれて分かれて分かれて、分かれまくって、そして専門家の時代になった。

今、わたしは、音楽を奏でて橋をつなぎとめている人たちを、愛しています。

久しぶりにこのブログのアクセス解析見たら、5月の検索ワードで、


「宮川彬良 ゲイ」


が突出していたんですが、これは……。


あと1件「宮川彬良 オネエ」っていうのもあった。


いつもどおり、通常運転の宮川先生のイメージだけども。


5月ってなんかそんなゲイっぽいことしたのか?


それはそうと宮川先生、期間限定ですがアメブロを始められました。


宮川彬良オフィシャルブログ


うれしいことです。


本日26日日曜日の更新は、女性に囲まれている宮川先生の写真つきですよ(゚∀゚*)ノ


2枚目の写真は女性もののドレスを体にあててちょっとくねっと……、



ゲイ疑惑が消えないわけだ。


わたしのことを自明のものだと思いこんでしまうのは、生きていくために必要。
でも思いこんでしまったわたしのことを、私はわたしと思えない。
私のアイデンティティにわたしがわからないとあるから、たぶん、だからわたしが固定されてしまうと生きていくためにはそれで良いはずなのに狂いそうになる。
わたしが自明のもの、と思いこむようになるとき、たまらなく、違うと叫んで泣いて喚いて、またわたしが浮遊する不可解なものに落ち着く。
これは落ち着いているのか?
そもそも私のアイデンティティなんて言いかたがしっくりこない。
芥川龍之介の「河童」みたいに、もし産まれる前に、「生まれたいか?」と聞かれ、「生まれたくない!」と答えて産まれることを拒否することができたら、

わたしは「生まれたくない!」と叫んで産まれなかったでしょう。

偶然生まれたところの社会にまきこまれて生きていかねばならないことを知っていたら、わたしは絶対に産まれることを拒否したね。

今日、わたしはほんとに社会を知らないんだな、と愕然とした。

社会を知ろうとしていなかったし、知れなかった事情もあるのだけども、今からもうちょっと知ろうとするよ。

「9.11前後」という言い方をわかるようにならなければ……。

わたしはまきこまれているのだから、生きようとしたら、わたしをまきこんでいる社会を知らねばならぬのだろう、か。

相変わらずこのブログのアクセス解析が、


「宮川彬良 髪」

「宮川彬良 髪型」

「宮川彬良 ヘアースタイル」

「宮川彬良 オネエ」


とかで、安心しています。


だいじょうぶ、たぶん宮川先生はゲイではないし、オネエっぽいけど100%オネエではないです。


たぶん。


あと髪型は、オリジナリティを追求した結果です!(すごくまとめた)



ていうか、このブログにコンサートのセトリアップしてないと後で自分で探したいときに困る。


データベースとして、ちゃんと書いていくべきですね。


ついったは断片的な感想しか書かないし。



最近は朝倉かすみとか井上荒野とか宮木あや子とかを読んでました。


あと森博嗣もGシリーズも恍惚としながら追いかけています。