保守系サイトmy 日本 で見つけました。

ぜひご覧ください。




《ここから引用》


先日、とある勉強会に参加いたしました。
勉強会の題名は「日本人の精神の特質・日本人のエネルギーのもと」であり、今日の日本人を日本人たらしめている源についての講義でした。
講義の内容は多岐に渡り、日本の国の形成のきっかけとなった国難や、日本古来の言葉のイメージの他、現在繰り返されそうになっている過ちについても取り上げられていました。

今回の勉強会で興味深いと思ったのが、普段使う言葉についてでした。
普段使っている・・・とは言うものの、現在一般的に言われている言葉が、昔教えられてきた意味とは異なる意味合いになってしまっている事もあります。

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その代表的な言葉が『平等』であると思います。
日本人のエネルギーを語る上で、『平等』は欠かせない概念であるそうです。

現在において、平等、というと、皆平均化する、というような意味合いになってしまっていると思います。
しかし、昔(戦前まで)の『平等』は、全く意味合いが違うそうです。

端的に表すとすれば;
○昔の『平等』→上のものに合わせようとして努力すること
○今の『平等』→下のものに合わせること、平均化


・・・と言えます。

もともと昔の日本では、『平等』とは「上のものに追いつこうとすること」、「その為に、自分を磨き、相手も磨き、常に切磋琢磨して高みを目指すこと」を指していたそうです。

この事は、歴史を紐解いてみても分かります。例えば;

○近代(18~19世紀)、日本以外のアジア人・有色人は、白人国家に植民地支配されることに甘んじていた(白人じゃないから植民地化されても仕方がないと言う、諦めの風潮)。
しかし、日本人は「白人も同じ人間、いつか追いつける」と思っていた(或る意味、「根拠のない自信」と言えるが、こういう自信が必要なときもある)。
⇒ 同じ人間なんだから、いつか追いつける、という『平等の精神』


○台湾・韓国の併合についても同じことが言える。即ち、植民地支配を行い、搾取を行ったのではなく、『台湾・韓国も日本と同じところまで這い上がって来い』という意味合いで、各地の近代化を行った。
⇒ アジアの発展の為に切磋琢磨させる、という『平等の精神』


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しかし、現在において、『平等』は、全く正反対の意味を持つようになってしまっています。

即ち、「皆同じであるように、下のものに合わせて平均化すること」になってしまっています。例えば;

○運動会のかけっこでは、当然1番・2番・3番と言うように必ず順位が付くが、『皆頑張ったから、皆金メダルだ』と言うように、上のものも下のものも同じ金メダルを貰う。そこには、上のものに追いつこうと言う精神はなく、ただ『皆頑張った』という平均化がある。

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戦前と戦後で、これだけ意味合いが180度変わってしまっているというのにも吃驚しました。

私だったら、戦前の意味での『平等』という言葉がしっくり来るし、好きです。
全てを平均化してしまったら、そこにはただ馴れ合いがあるだけで、高みを目指すという考えには絶対に至らないと思います。


《引用ここまで》



いつごろからでしたか、運動会でのかけっこで順位をつけないという話をきいたのは。

もちろんすべての学校でそんなことがあるわけではないでしょうが、「何それ?ハァ!?」と思いましたね。

私は小学生のころ、絵や工作で何度か賞をとりました。が、体育はからっきし。運動会なんてこの世から無くなれ!と思っていたくらいです。

そんな私とは逆で、体育のときはヒーローやヒロインになれる子もいました。でも絵や工作ではいまいち・・・

「皆頑張ったから、皆金メダルだ」って、それでは「できる子のやる気」を失くしてしまいます。そしてできない子は上を目指す必要がないから頑張ることを止めてしまいます。


なにもすべてにおいて「高みを目指せ」とは言いませんが、とにかく日ごろの努力を忘れるな!簡単に諦めるな!ということですよね。

「平均化」は楽ですよ。楽だからきつい思いをしてまで努力するなんて馬鹿馬鹿しくなりますよね。ライバルが存在せず、皆仲良しこよし。一見ほのぼのしていいですが、結局馴れ合いで、お互い切磋琢磨しないから劣化していくのは当たりまえです。


少しだけ母の話をば。

母は視覚障害者です。右目は水晶体を取っているため見えませんが、左は弱視です。高校生のとき手術して少しだけ視力が回復したそうですが、加齢で手術前くらいの視力に戻ってしまったと言っていました。

見えないハンデがありますが、できる限りのことはしています。朝食を作る、洗濯物を干したり、取り込んでたたんだり、掃除をしたり。(昼食・夕食、買い物は父がします。)

また定年退職後、まずコンピューターを習い始めました。現在は私が送ったUSBスティックに入っている写真をプリントアウトするのは母の役目です。たしかほぼ同時に社交ダンスを習い、そこの会計も担当していました。(現在はやめてしまいましたが)

そしていつからでしたか、マラソンに挑戦するようになりまして、東京マラソンの障害者部門(10Km)や他のマラソン大会によく参加していました。(私、1Kmも走れません汗)ただし、数年前に大会参加はやめてしまいましたが、時々走りにいってるようです。

なお現在ほぼ毎日欠かさずヨガしてます。


左目がようやくぼんやり見えるくらいの弱視で76歳、“無理はしない”と言っていますが、自分でできる範囲でこなしています。

ちなみに母曰く「友達(全盲)はもっと凄いのよ」と。母は負けず嫌いなんですね。あはは…


ハンデがあるので、健常者と同じは流石に無理で、「高みを目指す」ことはできませんが、それでも努力を怠らない母は、私にはスーパーウーマンに見えます。スターくん

そしてそんな母を見ると「いやぁ、私も年だし。家事・育児忙しいし・・・」なんて言い訳できないです。うーん

どうしても人を頼らないといけない時もありますし、事によってはある程度“平均化”も必要ですが、そこに胡坐を書いては人は成長しないわけでして・・・。



“平均化”・・・下にあわせるから楽でしょうし、ライバルを意識する必要がないなら皆仲良しこよしで、そんな世界はほのぼの。でも人って楽しだすと怠惰になるんですよね。そして努力するのが馬鹿馬鹿しくなっちゃう。

それでいいんでしょうか?

今の日本の発展はご先祖や先人たちの努力があってこそです。

行き過ぎてぎすぎすした時代もあったでしょうし、弱者を省みない時代もあったでしょうが、だからといってこれまた行き過ぎた配慮で「平均化」してしまうのもどうかと思います。


今一度、日本人は『平等」の意味を考えた方がいいのかもしれません。






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