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旅の途中で想ったこと

私が旅に出る理由はひとつではない。



単に世界を自分の目で見たいから、というのもあるし、

未知の場所で自分を試したいというのもある。



幼いころから父に言われ続けたのは、「苦労は買ってでもしろ」ということ。



その意味を理解できるようになってから、なるべくそうしてきたつもりだった。



エスカレーター式の学校でのんびり育つ中で、ある日突然「このままじゃだめだ」と思って、自分なりに挑戦を重ねたつもりだった。



アメリカの大学へ行ったのも、本当に本当に怖かったからだった。

今なら、日本の大学の良さも理解できる。

でも中学生の時から、日本の大学への憧れはかけらもなかった。



JJ bisとかCanCamとか、日本の雑誌を読んでみて、ブランド品で身をかためた女子大生を見て、こんなのになりたくない、と真剣に思った。

外見は可愛くて、彼女達のお気に入りのブランド品もしっかり似合っている。

私には、それはまるで中身のなさを象徴しているように見えて仕方なかった。

本当に中身で勝負できるなら、内側からにじみ出るものがあるはずだと思った。

雑誌の中の彼女達に会ったことはないから、実際はどうかわからない。

それでも、私は虚しく思うことしかできなかった。



アメリカで、必死になってやってみた。

オシャレなんて、私の生活に関係なかった。



中身を豊かにしたい。

「私」で勝負したいんだ。

そんな思いをずっとずっと、抱えてきた。







でも、しょせん私は甘くて未熟なままだ。



アメリカの大学へ行けたのも、名門私立と言われる女子校に12年間通えたのも、ぜんぶぜーんぶ、親ありきだ。

一人旅の資金は、"だいたい"自分で出している、でも100%じゃない。





最近私は思う。



自分が苦労だと思ってやってきた苦労は、結局たいした苦労じゃない。



「苦労」、それは私を成長させてくれるものだと思っていた。



私の小学校から高校の友達のほとんどは、いいとこのお嬢様。

私も、それなりに恵まれた家庭に生まれて、何不自由ない生活をさせてもらっていた。

そこに私の「基準」が生まれてしまっていた。

私には、自ら苦労をしにいく「余裕」がある。



私が今までやってきたことは、見せかけの苦労なんだろうか。

何も変わっていないんだろうか。





私は、自分の恵まれすぎた環境が不満だった。

可能なことが多ければ多いほど、私は何も出来ないまま生きていく気がした。

「いいね、お金持ちは」とか「お嬢様だもんね」なんて言われるたび、ひたすら惨めだった。

遠まわしに、「何にも出来ないんでしょ」「甘やかされて育ったんでしょ」と責められてる気がした。

そんなの、私のせいじゃないじゃない。

どうにもできないじゃない。



そんな反面、その恵まれた環境にしっかり甘えている自分がいた。

自分がすごく嫌いだった。

どれだけ苦労を買いにいこうとしょせん裕福な家庭のお嬢様のわがまま程度にしかならないんじゃないか。

自己満足なのか。

私は私を変えられないのか。

私は、自分を超えていけないのか。





旅では色んな人に会う。

皆個性的で素敵な人ばかり。

だからこそ、自分の小ささを知る。





私はどうしたら本当に内側から輝ける人間になれるんだろうか。

きっとまだまだ、私は甘い。



この壁を超えたところに、本当に”人”として自分を磨いていけるステージがある気がする。

もっともっと、自分に厳しくありたい。