巻第一(25) 人生を楽しむための養生の術 | 『養生訓』を読んでみる

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健康は養生から。無理せずできることを続けること。そのヒントになれば幸いです。現代語への意訳を東洋医学の解説つきでどうぞ。

人の業(わざ)、すなわち仕事は多くある。仕事を行うための道を術という。どんな仕事にも、それぞれに習得すべき術があって、術を知らなければ、仕事を成しとげるのは難しい。

多々ある仕事の中で、どんなに卑小なものであっても、その術を学ばなければ何もできない。たとえば、みの作りやかさ張りは、そんなに難しい仕事ではないけれど、その術を学んでなかったら、できないよね。

人は天地と並ぶ三才とされている。この貴い身体を養い、命を保って長生きするのは、とても大事なことだ。そのための術があるのは当然のこと。その術を学ばないで、どうやって長生きすることができるだろう。

誰しも、卑小であっても芸事には、必ず師を求め、教えを受けて、その術を習う。なぜなら、技芸の才能があったとしても、その術を学んでなければ、うまくできないからだよね。

ところが、人の貴い身体を養生して保つことは、とても大切な術なのに、師も教えもなく、学びも習いもしない。そうして養生の術を知らないまま、自らの欲望にまかせてたら、養生の道を得て、生まれつきあるはずの天寿を保つことなんて、できるはずもないでしょ。

養生して、長生きしたいと思うなら、養生の術を習得しなくちゃね。 養生の術は大いなる道で、小芸なんかじゃない。心してその術をしっかり学ばないと、修得するのは難しい。もし、その術を知っている人から学んで、その道を得ることができれば、千金にも替え難い。

天地と父母から受けたとても大切な身体を持っているのに、これを保つ方法を知らないで、身を持ち崩して大病となり、身を失って早世することは、本当に愚かなことだよ。天地と父母に対して、大不孝と言うほかない。

健康で長生きしてこそ、人としての楽しみを多く味わうこともできる。病気が多く短命では、どんなに大金持ちになったって、どうにもならない。貧しくても長命なほうがずっといい。

郷里の若者たちをみると、養生の術を知らないで、放蕩して短命に終わる人が多い。また、郷里の多くの老人は、養生の道を知らずに、多病に苦しみ、元気が衰えて、もうろくするのが早い。

たとえ百年生きたとしても、楽しみがなく、苦しみが多いんじゃ、長生きする意味がない。ただ生きているだけでは、寿というわけにはいかないね。

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注)

1) 「仕事」と訳してますが、原文では「業(わざ)」となっています。それに合わせて「道」を「方法」としてもよかったんですが、これまで「養生の道」というふうに使ってきましたので、それに合わせてみました。
 業(わざ)をきわめるには道に従うこと。道に従うにはその術を知ること。「道」と「術」は、どっちも「方法」と言えるものですけど、「道」は道理、メンタルな面で、「術」は技術、テクニカルな面かなぁ…と考えています。

2) 先人に学び、技術を習得して、さらに工夫を重ねる。そうして長い間守られ、受け継がれてきたのが伝統芸能や伝統工芸ですね。それと同様に、養生の術だって受け継がれるべきだというのが、益軒先生の言い分でしょう。
 巻第一(23)にあったように、「天地人三才」として、人は天地と並び称されるほどの存在。それほど貴重な人の身体のためにあるのが養生の道であり、その道を進むために必要なのが、益軒先生おススメの養生の術ってことですね。

3) ただ長生きするのがいいんじゃない、健康で、人生を楽しめてこその長生きだ。そういう益軒先生の考え方、大好きです。人生の楽しみについては、巻第一(22)に「人生の三楽」がありましたね。
 益軒先生の楽しみと言えば、そりゃ、学問でしょ。益軒先生ってどんな人?にあるように、本業の儒家としての研究に加えて、医学書まで読んで、本草書も書かれてますからね。

4) 「寿」は、巻第一(18)に出てきた上寿・中寿・下寿の寿。つまり、60歳以上のご長寿のことかと思いますが、きちんと養生して、元気があってこその寿という言い方ですから、そのまま「ことぶき」と取ってもいいかもしれませんね。

5) 『養生訓』の各項にはタイトルはついてません。したがって、タイトルにある「人生を楽しむための養生の術」は、中身から判断して私が勝手につけたものです。原文をお読みになりたい方は、こちらへどうぞ→中村学園 デジタル図書館

一天一笑、今日も笑顔でいい1日です。