44景 日本橋通一丁目略図 | 広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

百景が描かれた時代背景、浮世絵の細部、安政地震からの復興を完全解説!

 景数  44景 
 題名  日本橋通一丁目略図 
 改印  安政5年8月 
 落款  廣重畫 
 描かれた日(推定)  安政5年6月1日 

広重アナリーゼ-日本橋通一丁目略図


 改印が安政5年8月で、広重の死の直前の改印がある3枚の絵のうちの1つである。
 まず場所と建物の解説をしておこう。 描かれている通一丁目は、日本橋を起点とする東海道の一番日本橋に近い町であり、地価は間口一間で千両と、江戸で一番高かった。この絵は一丁目を日本橋の遠いほうから、日本橋方向を描いている。右側手前にある店は白木屋、その隣は東喬庵、その隣はのれんから西川伴伝だと思うがはっきりわからない。
 白木屋は、近江長浜の出身、材木商の白木屋大村彦太郎が通2丁目に小間物やを開き、その後西川伴伝の店を借りて1丁目に進出し、江戸3大呉服店まで成長した。東喬庵はそば屋で、白木屋の前を出前しているのも店の者だろう。よく見ると麺鉢に唐草模様が施されており、高級店だったことがうかがえる。しかし東喬庵についてはどのような店だったか史料は見つかっていない。西川は現在でも存続している布団の西川で、元は近江出身の畳表問屋である。

 人物についても解説しておくと、右側にはまくわ瓜売り、中央には三味線を弾く新内流し、大きな傘に大勢入っているのはかっぽれである。
 まくわ瓜は、元は美濃の真桑村で栽培されていた甘い瓜で元和のころ幕府が江戸でも栽培できるように農民を呼んだ。現在の新宿に近い成子村で盛んに栽培されていたいので、鳴子瓜とも呼ばれた(江戸の野菜)。
 新内流しは、本職の流しである場合もあるのだが、趣味で流している人が結構多かったという。新内流しの三味線の合いの手は、「テンプラ食べたい」と聞こえるので、この言葉は新内流しの代名詞になっていた(江戸の日暦)。着ている浴衣の模様は車輪で、この時代ではよくある柄である。車輪の模様の着物を仕立てたが、車輪がちょうど股間に来てしまい着れなかった、なんていう小話もある。
 かっぽれは、大道芸人で絵にあるようないでたちで踊った。広重は天保初期にも描いているので、20数年前からある光景のようだ。

$広重アナリーゼ-江都名所霞が関(天保3ころ)


 この絵は、白木屋の入銀物(広告)であることは確かだが、この時期に取り上げた理由がわからない。同じ呉服店の越後屋、松坂屋、大丸などは既に百景で取り上げられていて、越後屋と松坂屋については、8景「する賀てふ」13景「下谷広小路」ですでに解説済で、地震後の営業再開を宣伝する目的であることは明らかである。しかしすでに安政5年と地震から3年近く経過していて、この理由は当てはまらない。おそらくは安政5年7月改印の74景「大伝馬町こふく店」にある大丸に対抗するために入銀物として取り上げたのではないか。

 さて絵にある白木屋は安政地震では、どのようであったか見てみよう。白木屋大村家の文書に安政地震後の復興の様子が記されている。もともと火事の多い江戸では、火事の後にいかに早く仮店舗をかまえ営業を再開できるかが重要で、かつて店舗は土蔵作りであったが、木造の方が復旧が早いため、この時期には木造になっている。地震で土蔵4箇所が残らず破損し、店舗も大被害を受けた。直ぐに荷物を亀高村へ送り、深川に仮店舗を作り、11月15日には仮店舗で営業再開、日本橋は10月20日には裏手の土蔵の荒打ち、3ヵ月後の翌年2月1日には日本橋で店開きをしている。その後、安政5年までに周囲で火事が起きているが、通1丁目は類焼被害はなく、このとき完成した姿が絵になっているようだ。(白木屋大村家文書 東京大学経済学部文書室)

 最後にこの絵の描かれた日の推測をしてみよう。人々の恰好から真夏であるが、具体的に日にちを決定できるものがない。
 前述したように大丸に対抗して描かれたとすると安政5年の夏の絵であると思われる。まくわ瓜は江戸名所図会にも描かれていて、6月朔日ころの梅雨明けから出回るようである。そばの出前や全員が傘か笠を付けているところ、男の恰好からかなり暑い日の昼であることが予想できる。斎藤月岑日記から安政5年の梅雨明けを調べてみると、5月29日に明けたようである。6月朔日は、朝薄曇で昼過より晴で暑いとあり、絵の状況とかなり合致する。他にも候補があるが、一応この日を描いたとしておこう。

広重―江戸風景版画大聚成
和洋暦換算事典
新収日本地震史料〈第5巻 別巻2〉安政二年十月二日 (1985年)
日本名所図会全集〈〔6〕〉東海道名所図会・東都歳時記 (1975年)
日本橋街並み繁昌史
江戸の野菜―消えた三河島菜を求めて
江戸の日暦〈下〉 (1977年) (有楽選書〈15〉)

この記事は全てオリジナルです。許可なく他への引用は禁止です。