名所江戸百景 16景 千駄木団子坂花屋敷 | 広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

百景が描かれた時代背景、浮世絵の細部、安政地震からの復興を完全解説!

 景数  16景 
 題名  千駄木団子坂花屋敷 
 改印  安政3年5月 
 落款  廣重画 
 描かれた日(推定)  安政3年3月13日ころ 

広重アナリーゼ-千駄木団子坂花屋敷


 この絵は絵本江戸土産7編にまったく同じ構図がある。しかもこの絵は、江戸土産が横長の構図に対し、その半分を縦構図として全く同じ絵であることがわかる。しかし今までと違うところは、絵本江戸土産の7編の刊行は安政4年であった。つまり過去の絵からの引用ではなく、百景を江戸土産に引用したことになり、しかも百景と全く同じ構図を左にした横長の絵にしているというところが非常に面白い。

広重アナリーゼ-絵本江戸土産 千駄木団子坂花屋敷
絵本江戸土産 千駄木団子坂花屋敷


 研究者の間では、広重は百景つまり錦絵で「江戸名所図会」に対抗した名所絵集を作りたかったのだ、という説があるが、江戸土産でも「江戸名所図会」に対抗していたと考えられる。「江戸名所図会」は単色で、神社仏閣に偏りすぎとの批判があるが、江戸土産は多色摺りで名所中心としている。ただ惜しいことに初代広重の存命中には完成しなかった。

 堀晃明氏の「広重の大江戸名所百景散歩」でこの絵の説明に、「根津権現の池を団子坂にもってきた」といった説明がされているが、江戸土産やヘンリースミス氏「広重 名所江戸百景」の説明から誤りであることがわかる。江戸土産には、「千駄木  団子坂 花屋舗 その二 紫泉亭より東南眺望 傍の岳に浴室を作り,遊人をして沐浴(ゆあみ)せしむ。この楼(たかどの)より眺望すれば,図する所の勝地眼下にありて,実に絶景いはんかたなし」との説明があり、団子坂近くにあったは花屋敷の紫泉亭の庭ということがわかる。
 著者の説では、王子より遠くには百景を描くために行っていないと思っているが、この絵があるので千駄木までは出向いていると考えられる。

 安政地震でこのあたりの被害は斎藤月岑の武江地動之記によると、「団子坂花園紫泉亭宇平治の庭中にある崖の茶亭は谷へ崩れ落ち、3階の家はそのおかげで崩れなかった」とある。つまり絵中の坂の途中にある茶亭が坂の下へ倒壊したが、3階建ての紫泉亭は無事だったということである。また紫泉亭に続く植木屋は燈籠がごろごろ倒れる被害が出た。続く安政3年8月25日の台風については、谷中門外の谷中通りは、善光寺坂下・上清水門茶屋町・団子坂通りで、潰れた小家が多く、同所瑞林寺は残るところなく潰れ、幡随院境内の樹木はみな折れた、とある(江戸壊滅の日)。しかし台風は改印より後の出来事である。
 
 この庭の桜の描き方は他と異なる。桜が林立している中に緑色の葉をつけた木が間に描かれている。これは桜の木の間に別の木が植わっていることを表したのだと思われる。この庭園は四季花屋敷(嘉永5年 近江屋切絵図)と呼ばれていたそうで、池には花菖蒲や桜の他に梅も咲いていたそうで、桜の間になにか別の季節に咲く木を植えていたのだと思う。あるいは紅葉が楽しめる類かもしれない。いずれにしても、この場所を描くことは広重として初めてであるので、忠実に描いたのだと思う。

 安政3年3月13日に将軍家定公は、高田、雑司が谷、王子、道灌山、千駄木などを通るルートで御成をしている。目的はもちろん花見である。千駄木については「耕地より千駄木植木屋共庭御通り抜、千駄木兆通り・・・」となっていて、この場所を実際御成した可能性が高い。植木屋の地震の被害は、御成を受け入れられるほど復興していると考えられる。なお、花見などで訪れた場合、御成でなく通り抜けと称する。御成とすると公式訪問なので、受け入れる側も万全の準備をしなければならず、手間と費用が膨大にかかるが、通り抜けと称することで、「偶然立ち寄っただけ」の扱いにして、相手側に費用をかけさせず、気さくに対応できるような心配りがされていた。
 原信田実氏の「謎解き広重「江戸百」」には、このころ出版された広重の絵は御成の場所を紹介した絵であると解説している。たしかに一致しているのだが、家定公の御成は結構頻繁で、花見に関しては毎年、たまに梅も見ている。また目的ははっきりしないが、藤の季節や、紅葉の季節にもたびたび御成している。これらの場所は、将軍の御成とは関係なく、江戸町人にとってはとにかくメジャーな場所なのである。
 この御成のおかげで、毎年の桜が咲いた時期が特定できるのがありがたい。またこの年は、向島で花見の帰りに喧嘩をしたヤツがいて、その始末が藤岡屋日記にも載っていて、情報の確度が高い。

 さて、この絵が描かれた日であるが、広重が過去にこの場所を描いたことがないことや、地図の記載が嘉永5年ころなので比較的新しい名所とのことから、実際に改印直前の春を描いた可能性が高い。また地震被害が出た紫泉亭の復興を示しているものと考えられる。
 御成の日そのものは流石に警備が厳しいだろうから、その日とはそう遠くない2、3日前後の間に描かれたと推測される。

この記事で参考にした本
広重の大江戸名所百景散歩―江戸切絵図で歩く (古地図ライブラリー (3))
広重と浮世絵風景画
新収日本地震史料〈第5巻 別巻2〉安政二年十月二日 (1985年)
謎解き 広重「江戸百」 (集英社新書ヴィジュアル版)
近世庶民生活史料 藤岡屋日記〈第7巻〉
浮世絵大系〈16(別巻 4)〉名所江戸百景 (1975年)

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