彼は新選組隊士ではない。
しかし、近藤や土方、藤堂、井上、沖田といった新選組隊士らの名に交じって彼の名がある。
永倉は新撰組と袂を分かった後、旧友の芳賀と靖共隊を組織した。芳賀とは永倉が脱藩までして剣術修行に明け暮れていた頃、共に汗を流した旧知の間柄だ。隊長には芳賀、副長には永倉と原田が就いた。その後、原田は靖共隊を離れ、彰義隊に参加、上野戦争で戦死したと伝えられている。
永倉らも新政府軍と戦う意志はあったが、米沢藩の恭順、会津藩の降伏にてそれは叶わなかった。永倉と芳賀は雲井龍雄の手を借りて、旧幕臣の望月光蔵とともに江戸へ逃れることとなる。
その道程で永倉と芳賀はどうにもならない現実を前に、酒に溺れた。
酒を提供するような店があれば必ずそこに入り、酒を飲んでは酔って暴れ、望月が途中で彼らとの同行を放棄するほどであった。
そんな中でも何とか無事に江戸へ辿りついた永倉と芳賀であったが、新政府軍の取締が厳しく、潜伏生活を余議なくされる。
そんな鬱屈とした生活の中で、芳賀は自身の妻の実兄に惨殺され、その遺体は無残にも川に投げ捨てられたのであった。酒の席での喧嘩による、情けなく、悲しい最期だった。
永倉の心も、この親友の無残な死により、もう、限界を越えていた。
それから間もなく、永倉は旧藩の松前藩に帰参を願い出、これは聞き届けられることとなった。
だが、これは彼が上士の家柄で、その相続が出来る立場にあったから可能だったのである。
出自の違いが、その行末の明暗を分けたのだ。

▲慰霊碑の裏面の土方の名前には「、」が打たれている。
土方は「どかた」と呼ばれるのを嫌い、その署名には必ずこれをつけていたという。
土方は自分の出自に、終始抗い続けていた。
「どかた」と蔑まれるような農民出身という身分を払拭するため、自分にも他人にも厳しくあり続けた。
だが、最期まで本当の意味でそれが叶うことはなかった。
それ故、途中で降伏することさえ出来ず、極寒の蝦夷地に渡ってまで戦い続けねばならなかったのである。
降伏、それは土方のような出自の者にとっては、極刑、即ち凄惨な死を意味したからだ。
芳賀のやるせない死様や、土方の苛烈ともいえる生き方は、その当時の若き永倉にとって鮮烈な記憶として残っただろう。
この慰霊碑には、永倉にとって何物にも代え難い、戦友たちへの、篤き友情が刻み込まれている。
参考文献:『新選組隊士録』相川司著(新紀元社)
『慶応四年新撰組隊士伝』あさくらゆう著(崙書房出版 )