江戸時代、代々名主を務めた佐藤家には幕府の役人や文化人がよく立ち寄りました。蜀山人こと大田南畝もその一人です。文化6年(1809)三月、仕事で巡回中の南畝は佐藤家に立ち寄り、手打ち蕎麦を振る舞われました。その際、南畝はその美味しさに痛く感動し、『そばの文』という小文を書きあげ、佐藤家に残して行きました。その時使用された蒸龍も佐藤家に代々受け継がれています。
『蜀山人と日野のそば
そばは四季を通じて多くの人に好まれ、毎日、毎食でもというほどの人もいる。このためか、市内にも現在「そば屋」は三十数軒を数えるほどである。
しかし、日野に住み、そば好き、そば通と自称している人でも、幕末いらいそばの由来など書いた諸書に「日野のそば」が紹介されていることを知っている人は、意外に少ないようである。
文化年間(一八〇九年)頃、江戸幕府のご家人大田 直次郎は、玉川通普請掛り勘定方を勤めていた。この大田直次郎は幕府役人としてより、蜀山人【しょくさんじん】、 南畝【なんぽ】、四方赤良【よもせきりょう】などのペンネームで、狂歌師として世に知られていたことは、ご承知の方も多いと思われる。
この蜀山人、役向きでの巡回のおり、たびたび日野の名主彦右衛門方に立寄った。
文化六年三月二十七日、玉川巡見のときも彦右衛門方に止宿した。彦右衛門は信州のそばを取り寄せ、これを石臼で引き、手打ちそばを打って馳走した。
当時六十一歳の蜀山人は、その蕎麦【そば】粉の白さ、また、手打、味のみごとさを賞賛し、巡見中忙がしいおりであったが、次に記す「そばの文」を書き残した。
蕎麦の文
それ蕎麦はもと麦の類にはあらねど食料にあつる故に麦と名つくる事加古川ならぬ本草綱目にみえたり、されど手打のめでたきは天河屋が手なみをみせし事忠臣蔵に詳なり、もろこしにては一名を鳥麦といひ、そばきりを河濡麺といふ事は河濡津の名物なりと方便の説をつたふ、詩経に繭を視る事【あおい】のことしといひ、白楽天か蕎麦白如雪といへるはやかてみよ棒食はせんといひし花の事なるべし、大阪の砂場そばはみせの広きのみにして、木曽の寝覚は醤油に事をかきたり、一谷のあつもりそばは熊谷のぶっかけに平山のひらじいもおかし、大江戸のいにしへ元禄よりかみつかたは浅草にのみ見頓そばありてむしそばのあたへ七文とききしが、今は本町一丁目駿河町にもまぢかくありて御膳百文、二八※、二六、舟きり※、らんぎり※いもきり、卓袱【しっぽく】※、大名けんどん※はいざしらずうば玉の夜そば風鈴にいたるまでいづれかみかとのたねにあらざる、その外高砂の翁そば、鎌倉河岸の東向庵、福山のそばは三階にのぼり、みの屋のそばは敷初ににきほふ、洲崎のざるそば深川にきこえ、深大寺のそばは近在に名高し、浅草のまきやそばも大川橋の玄関構にしかず、正直そばの味ひも四国町の名家にくらべはいかんともいふべからず、池のはたの無趣庵に周茂叔か蓮をながめ、日くらしのとねり屋に若殿の駒をつなぐ、その駒の名に思ひ出す瓢箪屋の麹町念仏そばのかぢばし道光庵も、称往院の制札に蕎麦門内に入る事をゆるさず、小石川のそば切いなりもむかしとなりて、茖荷屋の茖荷ともにわすれはてぬ、ことし日野の本郷に来りてはじめて蕎麦の妙をしれり、しなのなる粉を引抜の玉川の手づくり手打よく素麺の滝のいと長く、李白か髪の三千丈もこれにはすぎじと覚ゆ、これなん小山田の関取ならねど日野の日の下開山といふべし そばのこのから天竺はいざしらず
これ日のもとの日野の本郷
蜀山人たちかかりて
いそがしく書(原文のまま。句読点、にごり点は筆者)。
まぼろしのそば
このそばの文はそばの語源、そばの歴史、諸国のそばの紹介、江戸のそば屋の盛衰など、大田蜀山人の博識に驚されるとともに、そばに関する貴重な史料として「故事の糸府志」「救民名物誌」「そば考」など諸書に紹介。また原典として引用されている。
それいらい蜀山人は日野を訪れるたびに彦右衛門にそばを所望したと伝えられ、右の文の他にも左記の様な狂歌も残している。
いかにして 粉をひこ右衛門ふるいては 日野の手打もこまかなるそば
この日野のそばは彦右衛門が打ち、蜀山人は賞味したもので、旅人や村人の口には入らなかった「まぼろしのそば」とも言える。
この「そばの文」一軸は、蜀山人愛用のそばの膳とともに、佐藤家に秘蔵されている。
※二八(=にはちそば)=小麦粉二、そば粉八の割合でつくったそば
※舟きり=そばのまだゆでないものを槽(ふね)に並べたもの
※らんぎり=卵を加えて作ったそば
※卓袱(しっぽく)=そばの上に野菜などのせて煮た料理
※大名けんどん=上等な器に盛ったそば
筆者:谷 春雄
原稿: 広報ひの昭和54 年 02 月 15 日号より転載』
▲ひの史跡・歴史データベースより転載
今年の二月二日~三月中旬まで、前述の記事にも記載した『日野宿 そば処 ちばい』にてこの『そばの文』と、南畝に蕎麦を打って馳走した本人、佐藤家八代目、佐藤彦右衛門俊興が書き残した『蜀人先生そばの文写し乃事実理由書』、その時使用された蕎麦蒸龍も同時展示されていたようです。
ご店主がおっしゃっていた血梅の咲く頃特別展示される掛け軸とはこのことだったのでしょうか。
ともかくも佐藤家と蕎麦にまつわるこんなお話があったということです。