池袋フランス座、池袋アバン跡探訪 | cobanobuのブログ

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都会の中にあるにも拘らず池袋のストリップ劇場について語られることは稀である。その昔、松倉宇七の率いる東洋興業は浅草に浅草フランス座、東洋劇場、浅草演芸ホール、ロック座を擁していた。新宿には新宿フランス座改め新宿ミュージックホール、池袋フランス座の劇場も持っていた。新宿ミュージックホールは今の伊勢丹の場所に在ったことを知る人は多いが、さて池袋フランス座の方はどうか。当時出版された雑誌の所在地の案内を見ると「三越裏」とか「協和銀行裏」と書かれているが、この企業名は現在池袋の街に存在しない。探すには当時の地図が必要となる。それに依ると「池袋三越」は駅東口パルコ前の「LABI 1 日本総本店池袋」の場所にあった。さて「協和銀行」というと、その真裏に在る「ジャパンニューアルファパチンコスロット」というパチンコ店である。サンシャイン通りを挟んで隣に住友池袋駅前ビルがある。肝心のフランス座の所在地はパチンコ店裏のミスタードーナツのあたりになる。ここを突き止めるには池袋フランス座パンフレットの略図が役に立った。略図には「テアトル」だとか「東映」「池袋劇場」の名前が記されており、これも当時の地図で確認でき、位置関係の特定に至ることができた。樋口四郎という支配人がこの劇場の楽屋の様子を語っている。それに依ると部屋中に都電の交差点の様にもっとひどい電線ではなく、網が張り巡らされていたという。そこには踊り子たちの衣装屋や洗濯物が下げられていたのである。この人物は踊り子全員に整形手術を受けさせたことでも知られている。やはり全員が東洋興業の社員ということでできたのだろう。その様なことを断行しないでも魅力的で綺麗な踊り子はいた。昭和28年の東劇バーレスク・ルーム時代、ミス・バーレスクに選ばれたこともある漣悠子(さざなみゆうこ)という踊り子である。田中小実昌は胸のあたりはジプシーローズに似ていたというが、写真で見る限りジプシーローズより遥かに豊満でグラマーと呼ぶのに相応しい踊り子である。池袋フランス座が閉館になりキャバレーになってから、漣悠子はカジバシ座に移り残酷劇に出演していたが何時の間にか消えてしまった。この劇場は社員の踊り子だけの純血主義で興行したかというとそうでもない。昭和35年「オール日本ストリップ座長大会」でメリー香山、浜みつる、南条ユミ、坂井百合子などの外部の踊り子を呼び入場料も170円から190円に上げて強気な部分を見せた。昭和478年くらいまで東京の盛り場(浅草、上野、新宿、池袋)のストリップ劇場はヘアーを見せなかったものであるが、昭和39年関西から呼んだ踊り子が全ストを行った容疑で町田支配人以下踊り子が検挙されている。この劇場に出ていたコメディアンで益田凡児という人物がいる。昭和3年岡山県に生れた。芸事が好きで、国鉄職員から転身した変わり種である。横山エンタツに弟子入りしてこの世界に入った。池袋フランス座が閉館した後、新宿の演芸場へ益田凡児と劇団アルファというグループを組んで上がった。益田凡児が大阪港区にダイコーミュージックをオープンしたのは昭和38年であった。金髪ヌードを発明したことで判るように彼はアイデアマンだった。劇場造りにもそれは活かされた。今まで客が見上げるような高さだった舞台を30センチの低さにしたり、客席を回転椅子にして特出しを見やすくした。益田凡児は日活の「かぶりつき人生」にも出演した。そしてダイコーミュージックで製作発表の記者会見を主演の殿岡ハツエが行った。益田凡児が新宿へ凱旋したのは昭和42年だった。2丁目旧赤線入口にモダンアートという実験小劇場をオープンさせたのだった。そこで寺山修司、萩原朔美の「天井桟敷」というアングラ劇団や、当時流行のヒッピーやフーテンを舞台に上げマスコミの注目を集めた。

毎日グラフ別冊「サン写真新聞戦後日本①昭和21年―1946・丙戌」に池袋アバンギャルド劇場、通称池袋アバンが紹介されている。

「池袋の駅前にできた小劇場<アバンギャルド>は普通の民家のような粗末な建物に定員150人を詰め込み、役者がいっぺんに56人も出ようものなら、ぶつかりあってしまうような狭い舞台だった。楽屋からの通路はくぐり戸になっていて一人一人がくぐって登場する。いまはなき<奇優>左ト全(左ページ下の写真)など<ムーラン・ルージュ>の残党たちが小山内薫の<息子>や菊池寛の<時の氏神>を上演していた。・・・」

闇市の雰囲気がプンプンとする中にこの小劇場は写されている。昭和2310月発行のオール読物に「世界一の小劇場」としても紹介されている。やはり楽屋も8畳一間で狭く役者が雑居している。役者は舞台だけが仕事ではない、電気技師や売店の売り子まで交代でやっている。オーナーは琴代京平という人でこれも脚本演出から切符売りまでこなす忙しさである。

昭和22年秘密の全裸ショウで有名になった場所は内幸町にあった国際観光ホテルである。各界の名士の見守る中でメリー松原はご自慢のヘアーを披露した。不穏な空気を察知した警察は動いた。その結果一時的な不自由と引き換えにメリー松原はマスコミの注目の的になり、翌年ロック座への出演を契機にスターダムへとのし上った。秘密ショウはその前にも行われている。やはり会員制で目黒の雅叙園で行われている。秘密全裸ショウは富裕層だけが対象かと思うとそうでもない。第一回は昭和21年池袋東口のアバンで最初に行われている。西口にある池袋文化映画劇場がその対抗策として映画のアトラクションとしてやはりその種のショウを行った。メリー松原は階層に拘りなくサービスを施したことになる。

池袋文化映画劇場について注意しなければならないことはその時代やはり西口にあった池袋文化劇場と混同してはならないことである。この池袋文化劇場は昭和22年ボードビル劇場としてオープンした。その後メリー松原のタッセルショウや朱里みさを(朱里エイコの母)のパルナスショウなどのストリップショウ上演で知られる劇場になった。

昭和26年劇団「空気座」の元文芸部員北里俊夫は劇団「グランギニョール」を率いて池袋アバンを根城とした。初期はどのような形態だったか残念ながら資料がないので判らない。ストリップ興行では小劇場を活かした特色のある存在だったようである。カストリの類の雑誌にも何回か舞台風景は載っているし、内外タイムスの記事や宣伝欄に常連劇場として掲載されている。何より昭和32年まで続いたのだからそれなりの存在意義はあったのであろう。渥美清の元愛人海原洋子はこの劇場の研究生だった。

池袋アバンの当時の住所は池袋1-756である。毎日グラフ別冊「サン写真新聞戦後日本①昭和21年―1946・丙戌」の写真にこの小劇場の隣に「池袋日勝映画劇場」の看板が写っている。昔の地図から当てはめるとこの辺は今の東池袋1-41の区画に当たる。場所は大雑把にいうとビックカメラ池袋本店からLABI 1 モバイルドリーム館に至る間に在ったと思われる。同じ区画に池袋ミカド劇場があるのは嬉しい。同劇場は昭和42年高岡興行が始めた。高岡興行はサーカス業者からの転身である。同じサーカスの転身組は西の島田興行が名高い。DX東寺(旧東寺劇場)A級京都(旧大宮劇場)A級伏見(旧伏見ミュージック)を経営するいわゆるADXチェーンである。高岡興行は日の出町にある京浜ミュージックを中心に運河を挟んで都橋商店街の反対にある港ミュージック、生麦の富士ミュージック、新宿ミカサ劇場、池袋ミカド劇場、そして暫くして渋谷OS、新宿OSを次々にオープンさせた。この劇場のオーナーはしばしば行方不明になり、関係者を慌てさせた。実はこのオーナーは稀代の艶福家であり、把握できないくらいあちこちにお妾さんがいたのである。すべてのお妾さんがオーナーに忠実であった訳ではない。ガッチリ貯めこんで好きな男のもとへ走ったものもいた。昭和40年から50年にかけてストリップの特集記事が毎週のように週刊誌を飾った。時流に乗った興行師は金にあかせて女を漁ったり、競馬にのめり込んだり或いは純金の風呂を造ったりした。これらの年代にはストリップの演目の殆どが出揃った。それらは露出を徹底的に極める超特急路線であり、発明した踊り子は峠を越したものが主だった。見るだけでなく観客参加のマナ板ショーが出現するに及んでそれまでの客層はガラリと代わった。少数派に転落した昔のファンからはストリップの原点に帰れという声が上がった。原点とはいえ今更チラリズムで満足できる訳ではない。特出しを残しながら女らしさを表現する踊り子を求めたのだった。

先日新宿モダンアートの跡地に行ったらそこには高層ビルが建っていた。太陽を一杯に浴び、反射光が眩しかった。昔のストリップ劇場は旧赤線青線地帯やその附近にあるものが多かった。それらは太陽に背を向け、後ろ暗さとか胡散臭く湿っぽい雰囲気が支配していた。都会の劇場にはもうその様な雰囲気を期待することはできないが、池袋ミカド劇場の佇まいを見ると巨大ビルの谷間に咲く一輪の花の様に見え満更ではないな、と何故か思えたのである。