ちょうど2年前の今日。2015年5月29日。東京医科歯科大学病院の11階にある小さなカンファレンスルームにおいて、約3週間の検査入院の結果、ALSであると診断を受けました。
あれから2年。あの時には、病気の進行は覚悟したものの、まさかこんなに早く進むとは思ってもおらず、自分でも不思議なくらい暢気に考えていたことを覚えています。
しかしながら、現実は想像以上に過酷で、右手と右足の筋力低下はどんどん進み、退院早々に「念のために」と買った一本杖はすぐに役に立たなくなり、7月には両手に杖を持たないと歩けなくなり、駅までの約600メートルに30分もかかるようになったり、何度も転倒を繰り返し、診断から半年後の12月初めには、長年住み慣れた柏市から綾瀬のマンションに引っ越しもしました。
その間、吉野先生の下で、自費での治療も含め、様々な治療法をを試しましたが、自覚できるほどの効果はなく、どんどん病気は進み、大好きだったスポーツはもちろん、趣味だった料理も、その料理を食べることも右手ではできなくなりましたが、左手でこなせるように訓練したり、百均ショップで買ってきたグッズを使ったりしながら、何とかカバーする努力を重ねました。
また、引っ越してひと月後には外出には電動車いすに乗るようになってしまったものの、新しい住居の周りを一人でふらふらと散歩したり、さらには、車椅子に乗り始めた頃から水彩画を描くことに楽しみを見つけたりと、身体の機能を失うごとに自由度もどんどんと失われる中でも、その都度工夫をしたり、新しいことにチャレンジすることによって、心の中の喪失感に抵抗してきたように思います。
とにかく診断を受けてからの一年半は、毎日身体に何らかの変化があり、それを何とかするために必死でした。
また、この間ずっと一人で支えてくれたのがパートナーでした。
時にはパートナー自身もノイローゼのような状態にもなりながらも、最後まで見捨てることなく、ずっと寄り添っていてくれました。
結婚しているわけでもなく、何の義務もないのに。。。
そして、昨年の11月末に、両手足の筋力低下と同時に進んでいた呼吸器の筋力低下による呼吸困難により、再び東京医科歯科大学病院に緊急入院をし、気管切開、人工呼吸器装着の手術を受け、移動する自由と併せて、会話することや歌う楽しみも失うことになりました。
病気の診断からたったの一年半で、多くの自由や楽しみが失われてしまいました。
さらには、施設の選定をめぐるごたごたで、肉親との縁も失いました。
ガンを患っている父や、めっきり足腰が弱ってきている母。いずれも80を超える高齢となり、いつお迎えが来てもおかしくない状況ながら、介護することもできず、葬儀にすら行けないのでは?という不安が頭をよぎります。
一方、再入院、手術から間もなく半年になりますが、この半年は、それまでの一年半と全く違ったもので、生活の中に「能動的なこと」、工夫したり努力したりして不自由をカバーするために「自分で何とかすること」もありません。
そして、何よりも寂しいのはパートナーとの何気ない時間が失われてしまったこと。。。
最近、口の周りの筋肉に感じていた違和感がますます大きくなってきていて、そう遠くない時期に食べる楽しみも失うのでは?と、早くも諦めに似た気持ちも生まれつつあります。
今や、移動はもちろん、食事も排泄も、何もかも人の手を借りなければできません。自らの死を選ぶ自由すらありません。
この先、いったいどれだけの時間を、どうやって過ごしていけばいいのか。。。?
「気管切開、人工呼吸器装着は、やってもやらなくても、どちらにしても後悔する。」
以前、マンションに来てもらっていた訪問看護の看護師さんから聞かされた言葉が、今さらのように胸に響きます。