ビル・S・バリンジャー『歯と爪』 | 文学どうでしょう

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歯と爪【新版】 (創元推理文庫)/東京創元社

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ビル・S・バリンジャー(大久保康雄訳)『歯と爪』(創元推理文庫)を読みました。

販売戦略でもし気に入らなかったら全額返金というのがあります。いつだったかハンバーガー屋でもやっていて驚きましたが、小説でそういう戦略を取るのは珍しいですよね。『歯と爪』はその珍しい一冊。

物語の後半三分の一が袋とじになっていて「意外な結末が待っていますが、あなたはここで、おやめになることができますか? もしやめられたら代金をお返しいたします」(257ページ)とあるのです。

おお、それはなんだか面白そうだぞと思った方は、ぜひ読んでみてください。読んでみて損はしない、ストーリー的に面白い作品でした。

ただ、残念ながら現代日本の読者がこの作品から衝撃を受けるかというと、おそらくそれはないだろうと思います。今ではもうごく当たり前に、『歯と爪』と似たような形式の作品がたくさんあるからです。

『歯と爪』で使われているのがどういう形式かというとカットバックと言われるもので、二つのまったく違う物語が交互に展開されていくんですね。やがてその二つの筋が、意外な形で結びつくというもの。

二つの筋の結びつき方が、読者の予想していたものと大きく違っていて驚くというものですが、あえて作品名は伏せますが日本でも貫井徳郎、殊能将之、伊坂幸太郎らにカットバックのミステリがあります。

なので、特にミステリ好きの方にとっては『歯と爪』を読んで感じるのは驚愕ではなく、もはや既視感だろうと思いますが、1955年に発表されたカットバックのミステリの源流を探るのも楽しいですよ。

物語のプロローグには、こんな思わせぶりなことが書かれています。

 生前、彼は奇術師だった――ハリー・フーディニやサーストンと同じような手品師、魔術師で、その方面ではすばらしい才能をもっていた。ただ、早死にしたため、ハリーやサーストンほど有名にならなかっただけだ。だが彼は、これらの名人すら試みなかったような一大奇術をやってのけた。
 まず第一に彼は、ある殺人犯人に対して復讐をなしとげた。
 第二に彼は殺人を犯した。
 そして第三に彼は、その謀略工作のなかで自分も殺されたのである。(7ページ)


物語はニューヨーク地方刑事裁判所の奇妙な殺人事件をめぐる裁判と、奇術師リュウ・マウンテンのラブストーリーとが交互に描かれていきます。全く関係ない二つの話が、意外な点で結びつくミステリ。

新訳ではありませんが2010年に新版が出て手に入りやすくなりました。袋とじの位置が旧版と新版とでは変わっているみたいですね。

作品のあらすじ


ニューヨーク地方刑事裁判所ではアイシャム・レディックという運転手が殺された事件の裁判が行われていました。フランクリン・キャノン検事は被告が証拠隠滅のために死体をバラバラにしたと言います。

しかし、被告の弁護士チャールズ・デンマンはそれを否定しました。

 ところで、みなさんはこれから一人の人間が殺されたはずだという、とんでもない作り話を聞かされることと思いますが、この殺人事件には、殺されたという人間の死体もなければ動機もなく、目撃者もいないのであります。こんなあやふやなでっちあげの物語から、みなさんは、すべての疑問に目を閉じて、殺人が行われたと断定するよう要求されるのであります。この権威ある法廷において、無実の人間が罪に問われようとしているのであります。この物語は、まさしく三十分もののテレビドラマほどの価値もない絵空事だと申さなければなりません(32ページ)


被告の家の暖房炉では何かが燃やされた跡があり、歯と頸骨(むこうずねの骨)、右手の中指が発見されました。凶器と思しき斧から検出された血液は、被害者レディックと同じO型のものだと分かります。

レディックと関わる人々が証言をすればするほど、現場に残されていた歯や、指はレディックのものであることが断定されていきました。レディックは殺され解体され、暖房炉で焼かれてしまったようです。

キャノン検事は被告が殺人を犯したことは明らかだと主張し、一方デンマン弁護士は殺人と結びつく決定的な証拠がないと主張して……。

少しずつ状況が明らかになっていくレディック殺人事件の裁判と並行して奇術師の〈私〉リュウ・マウンテンの物語が語られていきます。

〈私〉はある時、お金を落としたらしく料金が払えなくてタクシー運転手と揉めている女性タリー・ショウを助けてやりました。タリーはニューヨークに知り合いはなくどこにも行くあてもないと言います。

先週唯一の血縁である伯父を亡くしフィラデルフィアから出て来たタリーが持っていたのは帽子箱と持ち運ぶには少し重い手さげ鞄だけ。タイプや速記も出来ず、働き口がすぐに見つかりそうもありません。

気の毒に思った〈私〉は自分のホテルを又貸ししてやり、なかなかいい仕事が見つからないと言うので自分のマジックショーの助手として使い始めました。舞台は大成功をおさめ、二人はやがて結婚します。

あの重い手さげ鞄がなくなったので尋ねると、タリーは捨てたと言いました。財産家でないから離婚するかと、冗談めかして聞くタリー。

「離婚なんかしないさ」と私は言った。「離婚するどころか、機会があったらどこかの特売場でドレスの一枚ぐらい買ってあげるよ」ふたたび彼女はコーヒーを沸しはじめたので、私もこのことについては、それ以上何も言わなかった。だが、あの重い鞄のことがどうにも気になってならなかった。いつかはタリーが話してくれるだろうとは思ったが、それにしてもまだ気持にひっかかることがほかにいくつかあった。彼女は、どうしてあんなにあたふたと家をとび出したのだろう? どうして知っている人が一人もいないのだろう? どうして衣類をもっと持っていないのだろう?
 私は女性について知ったかぶりをするつもりは毛頭ない。だが、それにしても身につけたドレスと数枚の下着だけで家をとび出すなんて、普通ではないと感じるくらいの感覚はもっているつもりだ。(73ページ)


仕事は順調、これほど愛せる人を見つけられて嬉しいと言うタリーですが「でもね、リュウ、あなたがほんとうに人を憎むときのとを考えると、とてもおそろしいわ」(98ページ)とふともらしたことも。

やがてフィラデルフィアのホテルで五週間の出演が決まりました。大きな仕事に張り切っていた〈私〉でしたが、タリーはどうも気が進まない様子です。契約をやめるか一人で行ってほしいと言うのでした。

しかし、今やタリーがいなければ〈私〉のショーは成り立たず、渋るタリーをなんとか説得して、二人でフィラデルフィアに向かいます。

フィラデルフィアのホテルの部屋に、ある晩、不気味な電話がかかって来ました。電話の相手の男は、押し殺したような声で、「あれをよこせば二万五千ドル払ってやる」(121ページ)と言ったのです。

この一本の電話が、〈私〉とタリーの幸せを、崩壊へと導いて……。

はたして電話の男の狙いとは一体? 殺人事件の驚きの真相とは!?

とまあそんなお話です。暖房炉で燃やされたらしく、死体が見つかっていないというやや奇妙な殺人事件をめぐる裁判と、奇術師の〈私〉とその妻のタリーの幸せな日々の物語が、交互に描かれていく作品。

この二つの話は、一体どのように結びつくのでしょうか。カットバックのミステリに興味を持った方は、ぜひ手にとってみてください。袋とじを開かずにいられるか、試してみても面白いだろうと思います。

明日は、アルフレッド・テニスン『イノック・アーデン』を紹介する予定です。