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笠井潔『バイバイ、エンジェル』(創元推理文庫)を読みました。
綾辻行人や有栖川有栖など、いわゆる「新本格」の作家たちが現われる少し前に登場したのが笠井潔で、今回紹介する『バイバイ、エンジェル』が、1979年に発表された、そのデビュー作になります。
発表当時にどういう受け止められ方をされたのか、ぼくは体感としては分かりませんけれど、今なお異質な輝きを放つ作品だと思います。
矢吹駆という名探偵が登場し、犯人のトリックに挑むという点では、本格的な推理小説であり、リアルな犯罪を描こうとする「社会派」に対抗して本格推理小説の復権を試みた「新本格」に近い雰囲気です。
ただ、「矢吹駆シリーズ」は本格推理小説でありながら、犯罪を描くというよりは、思想を描くために書かれている感じがあるんですね。
矢吹駆は“現象学”を用いて事件の推理をし、時に登場人物たちと哲学的な談義を交わします。そこに、単なるミステリとは違う異質さがあって、おそらく読者の好き嫌いが分かれる部分だろうと思います。
普通のミステリの場合、犯人を捕まえて犯行動機が分かれば、それで読者は納得します。謎が解ければ終わりですから。しかし笠井潔の小説は、その後に、さらに考えさせられるものがある感じなんですね。
トリックに驚かされるだけでなく、思想的に色々考えさせられるミステリというのは珍しく、それだけにぼくはかなり面白く読みました。
ここで矢吹駆の”現象学”的アプローチについて触れておきましょう。
矢吹駆は実際に測ったわけでもなく、我々の誰もが「円」という概念を本質的に直観しているというところから、それを説明しています。
これについて現象学者は次のように考えます。僕たちがなにか円いものを、たとえばここにある一枚の硬貨を眺めるとします。本質直観とは、その一枚の硬貨という見本に、〈円なるもの〉一般のひとつの原型という性格を持たせることから始まります。そして次には、硬貨のなかにある〈円なるもの〉を無限に多様な無数のかたちに想像のなかで変容してみなければなりません。この、想像のなかで行われる変更作用によって、円の本質が直観されるようになります。たとえば、円い太陽、円い時計の文字盤、円い煙草の切断面、等々と考えていくわけです。しかし、円い歯車、と考えてみる時、僕たちはこの像を想像のなかから撤回しなければならないと感じます。歯車は歯が刻まれているからこそ歯車なので、その刻み目の存在が、円い歯車という想像を不可能にしてしまうのです。
(147ページ)
矢吹駆は、こうした“現象学”の本質直観を使うことによって、「実に複雑な要素が見分け難いほどに絡み合ったひとつの混沌」(148ページ)である犯罪の、隠された意味を解き明かせると言うのでした。
『バイバイ、エンジェル』は、有名な作品でありながら、あまり読まれない理由の一つに、物語の舞台がフランスだということがあるかも知れません。登場人物もフランス人ばかりで、日本人は矢吹駆だけ。
まさに海外ミステリを読んでいるような質感のミステリで、登場人物の名前が覚えづらいとか、文章がかたいとか、そういう感じはあるかも知れませんが、名探偵に独特の魅力のある面白いミステリでした。
作品のあらすじ
こんな書き出しで始まります。
春が来て、わたしは二十歳になった。
しかし透明な陽光と微風の五月のパリも、去年までのようにはわたしを楽しませない。わたしは少し大人び、以前のように気軽にはしゃぎまわったり、なにかを単純に決めつけたりはできなくなった気がする。ルシファーの冬の経験が、どこか深いところでわたしを変えてしまったのだ。(11ページ)
警視の父を持つ〈わたし〉ナディア・モガールは、去年の12月に起こったラルース家の恐ろしい連続殺人事件を思い出していきました。
〈わたし〉は大学の友人のアントワーヌ・レタールから、伯母のオデット・ラルースの所に「帰国は近い。裁きは行われるだろう。心せよ。I」(14ページ)という脅迫状が届けられたと聞きました。
Iはどうやらかつて地下抵抗組織(レジスタンス)の指導者であり、20年前に謎の失踪を遂げたイヴォン・デュ・ラブナンのようです。
オデットの父ジョゼフは元々イヴォンの小作人であり、何故かイヴォンから山を譲られ、その山からは後に鉱脈が発見されました。その山の贈与に関して、何かしらのトラブルがあったのかも知れません。
〈わたし〉とアントワーヌ、そして同じ大学に通うイヴォンの娘マチルドは、何ごとも起こらなければいいと、不安を募らせていました。
アントワーヌに連れられて、オデットの誕生会に向かっていた〈わたし〉は、中折帽を深くかぶり、外套に身を包んだ怪しげな男を目撃します。男は、建物の下の階段の所に、紙包みを置いていきました。
「アントワーヌ、見てよ」
包みをほどくと、そこには一冊の本があった。厚い革表紙の豪華な装幀の全集本の一冊だった。
「何の本だい」アントワーヌが不審そうに尋ねた。わたしは短い言葉を舌で押しだすようにして答えた。脳裏に浮かんだのは書名の代わりに打たれた赤い大文字だった。
「……『緋文字』よ、ホーソーンの」
「おかしいな。文学全集本のホーソーン・ポオ集か」とアントワーヌはわたしから本を受けとって呟いた。「これはオデットが持っているのと同じ本だ……」
「なんですって」わたしはちいさく叫んだ。(52ページ)
その本はやはり、オデットの家から持ち出されていたことが分かりました。不思議なのは、〈わたし〉を迎えに出るまではアントワーヌはその部屋にいたのですが、その時は本棚に隙間がなかったことです。
あの男は、この本をいつ、どうやって抜き出したのでしょうか?
〈わたし〉はイヴォンの息子で、マチルドの異母兄にあたるアンドレや、オデットの妹のジョゼットらに会って、色々な話を聞きました。
それから一週間ほどが過ぎ、ラルース家で死体が発見されます。それは外出用の服を着た中年女性の死体でした。外出する直前か帰宅直後に殺されたようです。奇妙なのは、その死体には首がなかったこと。
死体の服装はオデットのものでしたが、首がないので、オデットの死体か、それとも、妹のジョゼットの死体かは、定かではありません。
壁には血で書かれた“A”の文字が残されていました。ホーソーンの『緋文字』に仮託した、姦通を責める、メッセージなのでしょうか。
父が捜査にあたっていたため、この残酷な事件のことを知った〈わたし〉は、何故オデットは犯人を家に入れたのか、そして犯人は、何故首を切って、なおかつ持ち去ったのかの謎について考え始めました。
この不可解な殺人事件が、警察の常識的なアプローチでは解決出来ないと踏んだ〈わたし〉は、同じ大学に通う日本人で、日本語を教えてくれている知り合いの矢吹駆とともに、独自の捜査に乗り出します。
やがて、第二の殺人事件が起こってしまいましたが、〈わたし〉はついに連続殺人事件の謎を解き明かし、みなの前で発表したのでした。
ところが、カケルは〈わたし〉の推理を完全に否定したのです。
マドモワゼル・モガールは、多くの証拠や材料を無駄なく論理的な体系に組み立ててくれました。しかし、僕ならば、それぞれにもっともらしい十通りもの論理的解釈をたちどころに提出することができます。事実を解釈しうる論理はいくらでも多元的に存在しうるのだから。事実から真実をとりだすためには、論理だけではまったく不十分なのです。(269ページ)
カケルに腹を立てた〈わたし〉はカケルから距離を置いて、アントワーヌと親密になっていきました。やがて明らかになった第三の殺人。
そしてついに、カケルは事件の真相を突き止めました。〈わたし〉はカケルの言葉に半信半疑でしたが、カケルに案内されるままに、事件の関係者の元を訪れ、驚きの真実を知っていくこととなって・・・。
はたして、カケルが突き止めた、連続殺人事件の犯人とは一体!?
とまあそんなお話です。矢吹駆は実に魅力的なキャラクターで、過去に壮絶な経験をしているらしく、どこか影がある人物なんですね。犯罪者との向き合い方が、他の名探偵とは、やや違うように思います。
矢吹駆の“現象学”的な談義や、作中で描かれる思想的なことにピンと来なくても、首なし死体の謎、そしてその殺人トリックだけでも十分に楽しめる作品です。興味を持った方は、ぜひ読んでみてください。
明日は、北野勇作『かめくん』を紹介する予定です。