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悪徳の栄え〈下〉 (河出文庫)/河出書房新社
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マルキ・ド・サド(澁澤龍彥訳)『悪徳の栄え』(上下、河出文庫)を読みました。
5夜連続サドマゾ特集もついに最終回。今回は、昨日までの2日間にわたって紹介した妹のジュスティーヌの物語の続編であり、美徳と悪徳で対になる、姉ジュリエットの物語の紹介です。
”サディズム”という言葉の由来になったほどの作家の小説ですから、ムチがイメージされると思うのですが、そんなもんじゃすまないぐらいひどい描写が延々続く小説です。とにかくすさまじいです。
殺人(毒殺や刺殺、火山口に突き落すなど)、近親相姦、スカトロジー(糞尿にまつわること)、カニバリズム(人肉を食べる)など、ありとあらゆる禁忌(タブー)を盛り込んだ、すごい小説。
あまりにも内容的にひどいので、問題とされることも多く、実際日本でも1959年に現代思潮社で出版された『悪徳の栄え(続)』が、猥褻(わいせつ)文書であるとして、裁判になりました。
最高裁まで行きますが、上告が棄却され、1969年に判決が確定します。判決は有罪。澁澤龍彥と出版社には、それぞれ罰金が科せられました。『チャタレイ夫人の恋人』の裁判と並ぶ大きな事件です。
猥褻か否かを判断するというのは、とても難しいですよね。表現の自由はどの程度まで認められるべきなのか、今なお色々考えさせられる問題を孕んだ2つの裁判だったと思います。
どちらの裁判も有罪判決が出たのですが、性の表現に関する規制がゆるやかになった現在では、普通に読むことが出来ますよ。
さて、澁澤龍彥の『悪徳の栄え』は、そうした裁判になったことでも有名ですが、あともう一点触れておきたいのは、全訳ではないということ。訳者あとがきにはこう書かれています。
原著書は全六巻の大部のものであるが、翻訳はこれを三分の一ほどの分量に圧縮した抄訳であり、一巻から三巻までを上巻、四巻から六巻までを下巻とした。(上巻、345ページ)
文学性豊かな訳文が魅力の澁澤龍彥の翻訳で読もうと思ったら抄訳しかないわけですが、実際、ストーリーが飛んでるように感じられる部分もかなりありました。
今は絶版のようですが、未知谷から出ていた佐藤晴夫訳の『ジュリエット物語又は悪徳の栄え』がどうやら全訳のようなので、いつかそちらでも読んでみたいものです。
では、ここからは作品の内容に入っていきたいと思いますが、マルキ・ド・サドの代表作でもあり、そうした裁判にもなって、何かと話題な『悪徳の栄え』は面白いかどうか、そして、おすすめかどうか。
この小説を面白いと言うことは、何だか人でなしみたいで勇気がいりますが、非常に面白い小説でした。おすすめです。残酷なシーンが多い小説ではありますが、一度は読んでみる価値が十分にあります。
この作品の一番の魅力は、悪人によって悪が語られていること。
物語というものは、やはり正義が勝つというお約束のパターンがあったり、神を信じる者が救われる話が多かったりするもので、善について語られることは非常に多いわけです。
一方、真正面から罪や悪について語られる、しかもそれが純粋な喜びを持って語られることは、ほとんどまったくありません。
『悪徳の栄え』では、まだ純粋さの欠片を持っているジュリエットに対して、様々な悪人たちが悪の素晴らしさについて語るのですが、この悪の思想が、なんだか妙な説得力を持って胸に響くんですよ。
たとえば、ノアルスイユという悪人は、罪とは一体何なのかと、ジュリエットに問いかけました。みなさんだったら、どう答えますか? 何が罪で、何が悪なのでしょうか。少し考えてみてください。
法律で決められていることを破ることが罪なのでしょうか、自分の良心が自然と痛むことが悪なのでしょうか。
何が罪で何が悪かを一言で答えるのは極めて難しく、おそらく、罪は罪で、悪は悪であるという、トートロジー(同語反復)に陥ってしまうのではないかと思います。
まず、ノアルスイユは法律によって定められる罪を否定します。何故ならば、それは国や場所によって決まりが違うものだから、何の参考にもならないと言うんですね。そして、今度は自然に目を向けます。
人間社会と違って、自然は弱肉強食の世界ですよね。弱い者が強い者に食べられることで成立しているわけで、それを悪と呼ぶのならば、自然は悪なしには存在しえません。
自然が善をつくることができたのも、もっぱら悪の力によるのであり、自然が存在しているのも、罪の力によるのであって、もし地上に美徳しか棲まなかったら、すべては破壊されるだろう。そこで一つ質問するが、ジュリエット、かように悪が自然の偉大な目的に有効にはたらき、悪がなかったならば自然は何ごとも達成できないとわかった以上、どうして悪事をする人間が自然に有益な人物でないわけがあろう?(上巻、83ページ)
奥さんを惨殺したり、罪のない人々を苦しめたりと、ノアルスイユがすることは、もうとんでもなくひどく、おぞましいことばかりです。
それでも、「もし地上に美徳しか棲まなかったら、すべては破壊されるだろう」という言葉には、はっとさせられる感じがありませんか?
無垢な人々を連れてきて、辱めて殺すというような、行為としては思わず目を覆いたくなるものが多い作品ではありますが、そんな風に、悪人たちが嬉々として悪について語るという、非常に珍しい作品。
罪は罪であり、悪は悪であるというトートロジー(同語反復)の、一歩先の世界を覗いてみたい方におすすめの、誰もがいつの間にか持ってしまっている”常識”をぶち壊してしまう、過激な名作です。
※ あらすじ紹介では多少、性的な事柄や、残虐な殺人について書いているので、苦手な方はちょっと注意してください。
作品のあらすじ
パンテモンの修道院で暮らす13歳のジュリエットこと〈あたし〉は、デルベーヌ夫人という院長からひそかに性の手ほどきを受け、どんどん悪徳の道を突き進んでいくこととなったのでした。
父が破産し、両親を失って修道院を追い出されてからは、清く正しく生きたいと思う妹ジュスティーヌと袂を分かち、迷うことなく水商売の世界へ飛び込んでいった〈あたし〉。
”初物”を売り物にして荒稼ぎしていた〈あたし〉は、やがてその悪党ぶりを見込まれ、ノアルスイユというお金持ちに目をかけられるようになりました。
実は、このノアルスイユこそ、〈あたし〉の父を破産させ、死に追いやった張本人だったのですが、それを知ってもなお〈あたし〉は悪徳を重んじるノアルスイユに惹かれていきます。
「ああ、そんなことあたしに何の関係があるのでしょう? あたしはすべてを感動によって判断します。あなたの兇行の犠牲となったあたしの家族は、あたしに何の感動も生ぜしめてはくれませんでした。けれどあなたがあたしにしてくれたあの犯罪の告白は、あたしを熱狂させ、何とお伝えしていいか分らないほどな興奮の中へ、あたしを投げこんでくれました」(上巻、58ページ)
ノアルスイユを通して、サン・フォン氏という権力を牛耳る大臣と知り合いになった〈あたし〉はどんどん悪徳を吸収し、ノアルスイユに飽きられたノアルスイユ夫人の殺害に嬉々として参加します。
みんなでよってたかってノアルスイユ夫人をムチで叩き、痛めつけ、辱めた後、アルコールをかけて焼いて殺してしまったのでした。その恐るべき行動の中で、〈あたし〉たちは興奮を感じていたのです。
誰も思いつかないような残酷な殺害計画を思いつく〈あたし〉はやがて、サン・フォン氏からも気に入られ、可愛がられるようになっていったのでした。
ある時〈あたし〉は、ただ快楽のためだけに道端でピストルをぶっ放し、可哀想な女性を殺してしまったのですが、サン・フォン氏の口聞きですぐさま警察から解放されます。
サン・フォン氏は、下層階級の人間は上流階級の人間とはまったく別の存在であり、力のない者は力のある者に好き勝手にされて当然だと思っているので、〈あたし〉の行動をかえって面白がったのでした。
要するに下層階級の人間というのは、森の猿より一段上にいる種族に過ぎないのだ。この猿から下層階級までの隔たりは、下層階級から上流階級までの隔たりと、まったく等しいのだ。元来、あらゆる生物にきびしい段階を設けている自然が、人間のあいだにだけ、この段階を無視したとしたら、かえってふしぎではなかろうか?
(上巻、180ページ)
やがて18歳になった〈あたし〉は、ノアルスイユ、サン・フォン氏に次ぐ、3人目の悪徳の師匠とも言うべき、大柄で美しい未亡人、クレアウィル夫人と出会います。
女を愛し、気に入った男は殺さなければ気がすまないクレアウィル夫人と愛しあい、親しくなり、ついに「犯罪友の会」に誘ってもらったのでした。
あたしがメンバーになっている会では、もっと凄い淫猥な暴力沙汰が行われているのだけれど、あなたをそこの会員に迎え入れてあげましょう。その会では、夫はすべてその妻を、兄はすべてその妹を、父はすべてその娘を、独身者はすべてその女友達を、恋されている男はすべてその情婦を、連れて来なければならないのよ。大きな広間に集まって、めいめいがもっとも気に入ったことをして楽しむのだけれど、各自の欲望以外には何の規則もなく、各自の想像力以外には何の束縛もないわ。外道に走れば走るほど、あたしたちは称讃に値する人物となるのよ。(上巻、161ページ)
「犯罪友の会」の会員として認められた〈あたし〉は、いとも簡単に残虐な行為が行われる、そのおぞましい会合でも、愉快に悪徳の道を楽しみます。
そんな欲望と退廃に満ちた暮らしが続いていき、〈あたし〉が22歳になった時のこと。サン・フォン氏が恐ろしい計画を〈あたし〉に打ち明けました。
フランスには人口が多すぎるから、穀物を買い占めて、国民の三分の二を餓死させたら面白かろうというのです。
悪徳を愛する〈あたし〉でも、それを聞くとさすがにぞっと震えあがってしまいました。サン・フォン氏は、そんな〈あたし〉の様子を見て、何も言わずに帰って行きます。
やがて、ノアルスイユからメモが届きました。〈あたし〉が心の中の美徳を覗かせてしまい、サン・フォン氏の寵愛を失ってしまったから、逃げた方がいいと言うのです。
おれの教育した女が、魂の弱味をさらけ出そうとは、思いもよらなかった……今まであんなに見事に行動していた女が……今さらおまえの優柔不断をつぐなおうたって、それは無駄だ。大臣はもうけっしておまえを甘やかしてはくれまい。ほんの一寸した心の弱さがおまえの命取りになったのだ。この上は、手紙を受け取り次第、一刻も早くパリを離れるがよい。(上巻、299ページ)
サン・フォン氏の元から逃げ出した〈あたし〉は、身をひそめている時に出会ったロルサンジュ伯爵と結婚し、頃合いを見計らって毒殺した後、イタリアへ渡って・・・。
はたして、悪徳の道を突き進み続ける〈あたし〉を待ち受けている、思いがけない出来事とはいかに!?
とまあそんなお話です。上巻は修業編、下巻は実践編とも言うべき内容になっています。
3人の師匠から悪徳を学び、心の弱さから起こった思わぬ失敗を経験した〈あたし〉は、今度はイタリアの様々な場所で、男性や女性と愛しあい、欲望の限りをつくしていくのです。
昨日も、澁澤龍彥ならではの隠語(性的な用語)に少し触れましたが、今回も印象に残った語をいくつか紹介しておきましょう。
肛門は、「若気(にゃけ)」です。ちょっと不思議な感じはあるんですが、肛門性交の場面が実に多いんですよ。男性同士だけでなく、男女間でもかなり行われています。
昨日は「腎水」は精液と書きましたが、この作品ではもうちょっと幅広く使われてもいて、女性のものも「腎水」と書かれている場面がありました。なので、愛液的な意味合いも持つみたいですね。
今回特に多く使われていたのが、「千鳥」という語。女性同士の性交の時に使われる用語であることは間違いないです。多くはお互いを「千鳥」します。
ただ、「ドニ夫人はこの告白のあいだ一人でずっと千鳥をしておりましたが、話しおわると同時に埒をあけて気絶してしまいました」(下巻、29ページ)という使用例もありました。
なので、一人でもお互いにでも、ともかく女性器を指などで愛撫する隠語だろうと思います。「埒をあけて」は昨日も紹介しましたが、絶頂に達することでしたね。こういう用語も色々興味深かったです。
さてさて、そんなこんなで、5夜連続サドマゾ特集が無事に終わりました。いかがだったでしょうか。
反響が全くなかったので、引かれてるんじゃないかとちょっと戦々恐々としていますが、少しでも楽しんでいただけたなら幸いです。
確かにどれも変態的な性的嗜好の作品ではあるのですが、ムチでピシパシやられるなど設定としてユニークだったり、使われている語や言い回しが面白かったりしたのではないかなあと思います。
内容的にはかなりハードなものが多いので、積極的におすすめはしませんけれど、SMの原点を探りたいという方は、手に取ってみてはいかがでしょうか。
ちなみに、澁澤龍彥訳の河出文庫の「マルキ・ド・サド選集」は、残りあと4冊くらいあるんですよ。折角なので、制覇しておきたいという気がなくはないです。
少し時間を置いて、同じくアンダーグラウンド的なエロティシズム漂うジョルジュ・バタイユやアンドレ・ピエール・ド・マンディアルグなどとあわせて、紹介出来たらいいなあと考えていたりします。
明日は、柳田国男『遠野物語』を、そして明後日は、京極夏彦『遠野物語remix』を紹介する予定です。