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宮部みゆき『火車』(新潮文庫)を読みました。
足を怪我して休職中の刑事が、親戚の青年に頼まれて、何も告げずにいなくなってしまった婚約者の女性の行方を探し始めます。
ところが、次々と思いがけない事実が明らかになっていって――。
消えた女性の行方を追う、ただそれだけのシンプルな物語です。ところが、これが妙に引き込まれて、700ページ弱とやや長い小説にもかかわらず、ぐいぐい読まされてしまうのです。
物語の発想としてのすごさと、読みやすさを兼ね備えた宮部みゆきの作品はどれも傑作ばかりですが、ぼくは宮部みゆきの作品の中で、この『火車』がとりわけ印象に残っています。おすすめの一冊ですよ。
私立探偵が失踪した人物の行方を探すというのは、ハードボイルドでもお馴染みの展開ですが、『火車』はそういった作品とは全く違う印象を受ける作品です。
勿論、作品の舞台が日本だから、物語に入り込みやすいということもあるでしょう。
ただ、最も大きな理由は、少しずつ浮き上がって来る失踪した女性の人生に、思わず心動かされてしまう所にあります。ハードボイルドでは、そういうことはあまりないですよね。
失踪した女性だけではなく、それぞれの登場人物の人生の物語でもあるだけに、読み終わった後は、ずっしりとした何かが胸に残る、そんな物語。
ぼくが『火車』で、ずっと覚えていた場面があって、それは、本間刑事が亡くなった妻千鶴子の、少し変な癖を思い出す所です。
寒さの厳しい今頃の季節には、彼女は、夜寝巻に着替えるとき、下着からブラウスからセーターまで、重ねて一度にすぽんと脱ぎ、翌朝、今度はそのまますぽんと着る、という芸当をやってみせた。呆れるほど見事だが、あまり見場のいいことではないし、だいいち不精たらしい。そう言って、何度か文句をつけてはみたのだが、
「だって寒いんだもの」と笑っているだけで、なおそうとはしなかった。
「いっぺんやってごらんなさいな。あったかいわよ」
ところが、本間にはどうやってもできなかった。どれか一枚、シャツか下着の袖が変な方向へいってしまう。首尾よく着ることができても何か気分が悪く、結局もう一度脱いで着なおすことになるのがオチだった。(309~310ページ)
器用なんだか不精なんだかよく分かりませんが、ちょっとおかしな癖ですよね。
この癖が、息子の智にうつったらしく、千鶴子が亡くなって何年か経ってから、智が同じことをやり出したんです。
母子なんだから当たり前だろうと思われるかも知れませんが、実は本人にはまだ知らせていませんが、智は本間家に養子に来た子供なので、血縁関係はないんですね。
それでも、亡くなった千鶴子は、智に知らず知らずに影響を与えていたのです。
失踪した女性の行方を追う本間は、ある驚愕の真相をつかみ、死者が生者の中に残す足跡について思いを巡らせていきます。
そして、「人間は痕跡をつけずに生きてゆくことはできない。脱ぎ捨てた上着に体温が残っているように。櫛の目の間に髪の毛がはさまっているように。どこかに何かが残っている」(310ページ)と信じ、ほんのわずかな手がかりを辿っていって――。
作品のあらすじ
足の怪我のリハビリを受けた本間俊介は、電車とタクシーを使って、雨の中、自宅マンションに帰って来ました。
出迎えてくれたのは、10歳の息子の智と、時折仕事を頼んでいる家事代行サービスの井坂恒男。
本間は2人から、3年前に亡くなった妻千鶴子の親戚の人から連絡があり、今日訪ねて来るそうだと聞かされます。
夜9時近く、雨が雪に変わり、よっぽどのことが無い限りもう来ないだろうと本間は思っていましたが、そんな悪天候の中でも栗坂和也はやって来ました。
千鶴子の従兄の子供にあたる和也は、大手銀行に勤めているエリートです。今ではすっかり疎遠になってしまい、千鶴子の葬式にも顔を出してくれなかったほどの間柄。
そんな和也が、怪我で休職中の刑事である自分に一体どんな用があるのかと、本間は思わず身構えます。和也が口にしたのは、思いがけない話でした。
喉をごくりとさせて、和也は言った。「僕、婚約しました」
彼がそれをあまりに深刻な表情で口にしたので、笑ってしまうこともできなかった。
「そりゃ、おめでとう」
「それが全然めでたくないんです」真顔のまま、和也は続けた。「その婚約者が消えちまったんですから。だから、彼女を探してほしいんです。本間さんなら、人探しも仕事のうちでしょう? 慣れているし、僕なんかが一人でジタバタするよりずっと早く彼女を見つけだすことができると思うんです。だからお願いします、探してください」(21~22ページ)
突然失踪した婚約者は関根彰子、28歳。得意先の事務員で、1年と少しの交際を経て、和也と婚約に至りました。ところが書き置き一つ残さないまま、姿を消してしまったのです。
何か思い当たることはないかと本間が尋ねると、彰子のクレジットカードを作ろうとした所、「銀行系と信販会社系、両方の信用情報機関のブラックリストに載ってる」(34ページ)ことが分かったと言うんですね。
彰子はかつて自己破産をしたことがあったのです。そしてそのことを彰子に確認すると、彰子はすっと青ざめ、色々と事情があるから、また改めて話したいと言ったきり姿を消してしまったのでした。
婚約相手に隠しておきたい過去がばれてしまったから彰子は失踪したのだと大体予想はつきますが、刑事としての好奇心も手伝って、本間は和也の依頼を引き受けることにします。
休職中のため、警察手帳も使えませんし、大っぴらに警察を名乗るっても問題があるので、雑誌のライターだと言ったり、婚約者の身内の者だと名乗ったりして、関根彰子の近辺を洗っていく本間。
彰子の自己破産の件を担当した弁護士に会いに行った時、ふとしたことが引っ掛かります。
女性事務員が彰子の八重歯のことを覚えていたのですが、和也が彰子の顔の特徴を話してくれた時、八重歯については何も触れませんでした。
自分が気にしすぎなのだと思いながら本間は、彰子の履歴書を弁護士を見せて、顔写真の女性が関根彰子であることを確認してもらいます。ところが・・・。
「違います」
ゆっくりとかぶりを振り、にわかにそれが汚いものに変わったとでもいうかのように、履歴書を本間の手に押し返しながら、弁護士は言った。
「この女性は、私の知っている関根彰子さんではありません。会ったこともない。誰だか知らないが、この女性は関根彰子さんじゃありませんよ。別人です。あなたは別人の話をしている」(104~105ページ)
関根彰子ではない女性が、関根彰子を名乗って働き、生活し、婚約までしていたのです。もしも別人なのだとしたら、本物の関根彰子はどこへ行ってしまったのでしょう?
関根彰子を名乗る女性が暮らしていた部屋には、本当は一体誰なのかが分かる、手がかりらしい手がかりはほとんどありません。
ただ、八センチ四方の大きさのポラロイド写真がアルバムの中に残されていました。
チョコレート色の外壁の家の前を、二人連れの女性が通りかかっている写真。遠くには野球場の照明灯のようなものが見えます。
しかし、その写真だけではその家が一体どこにあるものなのか、写っている女性たちは誰なのか、何故関根彰子を名乗る女性がこの写真を大切に持っていたのかは分かりません。
調査を進める内に本間は、いつしかこんなことをぼんやりと考えるようになります。
本当の関根彰子がすでに亡くなっているのではないか、彰子の母親の死にも、関根彰子を名乗る女性が何らかの関与をしているのではないか。
関根彰子に成り変わるため、関根彰子を名乗る女性は一体何をしたのだろうか――。
ほんのわずかな手がかりでもと考えた本間は、関根彰子の故郷へ向かうことにして・・・。
はたして、本間は関根彰子を名乗る女性を見つけ出すことが出来るのか? そして関根彰子をめぐる出来事の真相とはいかに!?
とまあそんなお話です。クレジットカードによる思わぬ借金や、自己破産など、金融が大きなテーマになっている物語。
細々とした設定は、やや時代を感じさせるものではありますが、今なお変わらない現代社会の問題を炙り出しているという点では、全く古びていません。
少しずつ解き明かされていく失踪事件の謎。そこに本間や関根彰子をめぐる人々の人生が重なっていく面白さのある小説です。
失踪事件の真相が気になってしまった方は、ぜひ読んでみてください。いつの間にか物語に入り込んで、ぐいぐい読まされてしまいますよ。
明日は、桐野夏生『OUT』を紹介する予定です。