井上靖『しろばんば』 | 文学どうでしょう

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しろばんば (新潮文庫)/新潮社

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井上靖『しろばんば』(新潮文庫)を読みました。

井上靖は少し前に、『あすなろ物語』を紹介しましたね。

ひいおじいさんのお妾さんだった、おりょう婆さんと一緒に土蔵で暮らす鮎太少年の物語でした。

「あすなろう」という大きな志を持つ鮎太は、楽しいこと、そして悲しいことなど、様々なことを経験しながら、少しずつ成長していって・・・というお話。

『しろばんば』も作者である井上靖自身の人生が投影されている物語なので、『あすなろ物語』と重なる部分も多く、ひいおじいさんのお妾さんだったおぬい婆さんと暮らす洪作少年の物語です。

あすなろ物語』と『しろばんば』の最も大きな違いは、『あすなろ物語』が詩情あふれる連作(同じ設定のいくつかの短編)であったのに対し、『しろばんば』は長編なことです。

あすなろ物語』では主人公の少年は、わりとすぐに大人になってしまうんですが、『しろばんば』は全部が子供時代なので、物語をじっくり楽しむことができます。

ちなみに、『夏草冬濤』そして『北の海』と、この自伝的物語は続いていきますよ。

さて、『しろばんば』の面白さは色々あるんですが、中でも印象的なのは、やっぱりおぬい婆さんなんです。おぬい婆さんは、洪作を心から愛し、そして誇りに思っています。

ある時、洪作は次郎という子供と喧嘩をしてしまいました。喧嘩のきっかけは、次郎が「アキ子ノアノ字はアンポンタンノアノ字」(339ページ)という歌を歌っていたこと。

村の人々が御料局と呼んでいる所に、新しい所長さんが来たんですが、その所長さんの子供にあき子と公一という姉弟がいました。

外からやって来た上に、村の子供たちとは違う都会的な雰囲気を持った姉弟ですから、村の子供たちは、わざとからかっていじめるわけです。

これは好きな子をいじめるのとほとんど同じ心理で、要するに自分たちに構ってほしいということなんですが、「あき子のあの字はあんぽんたんのあ」などとみんなで大声で歌うわけですね。

次郎は病弱な少年なんですが、川で足を洗いながらその歌を歌っていました。

みんなの間で流行していた歌を、次郎は何気なく歌っていただけなんですが、たまたま通りかかった洪作は腹を立てて、次郎を殴りつけてしまったというわけです。

洪作も正義感が強いというだけでなく、もちろんあき子に対して、畏怖感にも似た憧れを抱いています。まあざっくり言えば、仄かな恋心ですね。

するとその夜、次郎の父親が、うちの息子に何をするんだと怒鳴り込んで来ました。腹を立てている上に、酔っ払ってもいるので、大変な剣幕です。

みなさんが怒鳴り込まれた側の親だったらどうしますか? あれですよね、喧嘩の事情を聞いて、自分の子供が悪かったら謝らせたりしますよね。

おぬい婆さんは違います。ちょっとそのやり取りを読んでみてください。

「なんでうちのがきを川の中へ突っ込んだか、そのいわれを聞かして貰いましょう」
「洪ちゃみたいに温和しいのが、あんたのところのあんな青ぶくれに手を出すかいな。もし本当に洪ちゃがそんなことをしたんなら、そりゃ、あんたとこの次郎が悪いに決まっとる。ちゃんと胸に手を置いて、お天道さんに訊いてみるこっちゃ」
 おぬい婆さんも敗けてはいなかった。階下の上り框のところで、二人が烈しい言葉の遣り取りをしているのが、二階に居る洪作の耳にも聞こえていた。洪作は大変なことになってしまったと思った。聞えて来る言葉は次第に荒くなった。
「洪ちゃか何ちゃか知らんが、お前とこのがきを出せ。わしが本人に訊いてやる」
「お前みたいな酔っ払いに、洪ちゃを会わせられるかどうか、よおく考えてみい。洪ちゃは大切な預りもんじゃ。ばかたれ」
 それから何か水でもぶちまけたような烈しい音が聞えた。(340ページ)


おぬい婆さんはバケツの水をぶちまけたんです。次郎の父親は、「ああ、世にも怖しい婆さがあるもんじゃ」(340ページ)と這う這うの体で帰っていきました。

これはちょっとすごいですよね。おぬい婆さんはまじりっけなしの100%、洪作の味方なんです。こうした態度は出来そうでなかなか出来ないものなので、「おお、すごいな!」と思わされました。

勿論、おぬい婆さんのこうした態度が必ずしも正解とは言えないだろうと思います。

たとえば、おぬい婆さんは毎朝、ご飯の前に黒砂糖のあめ玉などのおやつを食べさせるので、洪作は虫歯だらけになってしまっていたりもします。

などなど、問題は色々ありますが、それでもこれだけの愛情を抱けるというのは、やっぱりすごいことですよ。

愚かにも見えるくらい、洪作のことを愛しているおぬい婆さん。そうしたおぬい婆さんの愛に包まれながら、洪作は様々な物を見て、色々なことを考え、少しずつ成長して行きます。

バスがまだ珍しく、馬車が通るだけで大騒ぎするような、大正時代初期が物語の舞台になっているので、村独特の風習なども懐かしさを感じるどころか、感覚としてはもはやよく分からないものが多いです。

それでも、子供時代の特有の憂鬱さだとか、子供ならではの喜びが描かれる面白さがありますし、そして何よりも、色んな登場人物が洪作に語りかけてくれる言葉が印象に残る作品なんです。

たとえば、伯父さんの「何でも、自分のなりたいと思うものになるがいい。人間の一生なんて、すぐ終ってしまう」(553ページ)という言葉。

当然ながらぼくは洪作ではないですけども、読んでいるだけで、頭をがつんと殴られるような衝撃がありました。

こうした言葉は口にしようと思えば、誰でも簡単に言える言葉なだけに、時に薄っぺらなものに聞こえることがあります。

ですが、伯父さんというのは洪作の学校の校長先生をしていた人ですから、堅実な人生の大切さというものを知っています。

そして何よりも、洪作の家は代々医者になる家系だと知っているわけですから、絶対にこんな言葉は出てこないはずなんです。

何故、伯父さんはこんなことを言ったのでしょう? 伯父さんの心理は描かれませんから、その真意は分かりません。

自分の人生に後悔を感じる部分があったのか、それとも洪作のことをそれだけ買っているのか、それは分かりませんけども、この言葉はずっしりとした重みでもって、ぼくの心に残りました。

そんな風に、洪作の成長とともに、ぼくら読者も一緒に成長していけるような、そんな小説です。

作品のあらすじ


こんな書き出しで始まります。

 その頃、と言っても大正四、五年のことで、いまから四十数年前のことだが、夕方になると、決って村の子供たちは口々に”しろばんば、しろばんば”と叫びながら、家の前の街道をあっちに走ったり、こっちに走ったりしながら、夕闇のたちこめ始めた空間を綿屑でも舞っているように浮遊している白い小さい生き物を追いかけて遊んだ。(5ページ)


夕方になると、白い虫が飛ぶようになるんですね。それを「しろばんば」と呼んで、子供たちは追いかけます。

子供たちが一人、また一人と夕飯の時間を告げる親に呼ばれて帰って行くと、洪作もまたおぬい婆さんの待つ土蔵へ向かいました。

洪作はちゃんと両親がいるんですが、妹の小夜子が産まれて手が足りなかったので、洪作は5歳から6歳にかけて、ひいおじいさんのお妾さんにあたる、おぬい婆さんの元へ預けられたんですね。

すると、ようやく落ち着いて引き取ろうとした時にはもう、洪作は両親よりもおぬい婆さんの方になついてしまっていたんです。

そこで洪作は、母親の故郷であるここ、伊豆半島の天城山麓の山村で、おぬい婆さんと土蔵で暮らしています。

母親の実家であり、曽祖母、祖父母が暮らす本家もすぐそばにあるんですが、おぬい婆さんは本家との折り合いが悪いので、洪作にとっても本家は色々と複雑な思いがする場所です。

洪作が小学2年生になると、母親の妹でついこの間まで女学生だったさき子が、学校の先生になりました。洪作はそれを何だか不思議なことだと思います。

ある時、洪作の成績が下がったことで文句を言いに行ったおぬい婆さんは、「勉強させなけりゃ、どんな子だってできなくなるのが当たり前です。勉強みてやったことありますか。見てやらんでしょう」(49ページ)と逆にさき子にやり込められてしまいました。

そんな気の強いさき子はやがて、中川先生という男の先生と一緒にいる所が何度も目撃されるようになり、村中の噂になって・・・。

夏休みになると、洪作とおぬい婆さんは、愛知県豊橋市の聯隊に軍医としてつとめている父親の元へ遊びに行くこととなりました。

長い長い汽車での旅の途中、一緒に乗り合わせた女の人がお菓子をくれますが、洪作はもしかしたら毒が入っているかもしれないと思って手をつけません。

気が付かない内におぬい婆さんが食べ始めたので、「食ベン方ガイイノニナ、食ベン方ガイイノニナ」(105ページ)とこっそりと歌うように呟いたりします。

このエピソードは洪作の性質の一面をよく表していて、自意識過剰というか、まあ感受性豊かな子供なんですね。

毒が入っているかも知れないというのは、明らかに考えすぎなんですが、子供らしい無邪気さではなく、こうして色々考えすぎてしまう所は、ぼくの子供時代と似ている感じもあって、共感したりもしました。

豊橋に着くと、両親と妹という本当の家族に会うわけですが、やっぱり馴染めないんですね。父親に頭を撫でられると、「父っちゃに叩かれた」(113ページ)と、すぐおぬい婆さんに言いつけにいきます。

それを聞いた母親の七重が、叩くわけがないと言うと、今度は「母ちゃが睨んだ」(113ページ)と言いつけます。

「あんたはほんとに変な子になったね。どうして家へ来て、ごはんも食べんうちから、あることないことおばあちゃんに言いつけるの。わたしがあんたを睨むわけがないじゃないの」
 洪作は母が憤ったので、おぬい婆さんにしがみついた。するとおぬい婆さんは団扇を置いて、
「子供の言ったことに目に角をたてて憤る親があろうかさ。因果なこっちゃ」
 と、七重の方へ体を向けて言った。
「おばあちゃん」
 母は立って来ると、おぬい婆さんの前に坐って、
「断っておきますけど、洪作はわたしの子供ですからね。わたしは、わたしの好きなように育てますよ。おばあちゃんに預けて、変な子になるようだったら、こっちも考えさせて貰います」
 すると、おぬい婆さんは少しあわてて、
「変な子になるわけがないじゃないか。生れつき利発な洪ちゃだもの」
 と言った。(114ページ)


さき子と七重は姉妹なだけあって、気の強い所がとてもよく似ています。さすがのおぬい婆さんもたじたじという感じがありますね。

ぎこちない親子関係ながらも、家族とそれなりに楽しい休暇を過ごし、洪作とおぬい婆さんとは故郷へ戻りました。

さて、小学校を卒業した後はみんな、働きに出るのが当たり前という感じの村なのですが、洪作は育ちがいいですから、中学校への進学を目指すことになりました。

ところがそれにはやはり入学試験があるわけで、町の学校に比べると、洪作たちの学校は全体的にレベルが低いんですね。なので、そのままの成績ではどうも受かりそうにないわけです。

そこで、犬飼という教師に勉強を見てもらい、受験に備えることになりますが、犬飼は洪作の睡眠時間を聞くとこう言います。

「八時間か。――気の毒だが、六時間にして貰おう。日曜以外は十二時に寝て、六時起床。その替り、日曜だけはたっぷり眠るんだ。そして眠っていない時間は、いつも勉強だ。学校の休み時間も遊んでいてはいけない。君は、普通なら到底望み得ないことをやろうというんだ。そのくらいのことをしなければならぬ。飯を食べる時も勉強、便所へ行っても勉強。風呂へはいっても勉強。――いいか、それができるか」
 犬飼は眼を光らせて言った。
「できます」
 洪作は身内に烈しいものが突き上げて来るのを感じながら言った。(488ページ)


それからと言うものの、洪作は周りの人がびっくりするほど熱心に勉強に打ち込むようになって・・・。

とまあそんなお話です。あらすじの紹介では触れられませんでしたが、おぬい婆さんの親戚に会いに沼津に行き、そこで蘭子とれい子という姉妹に会ったり、初めて海を見るエピソードもまた印象的でした。

登場する期間こそ短いものの、「才能がなく、金がなく、健康がなくなった時、人間駄目なんだ」(523ページ)と悲痛な叫びをあげる犬飼先生の姿も心に残ります。

高層マンションが立ち並び、人と人との繋がりが希薄になってしまった現代社会だからこそ、『しろばんば』で描かれるあの時代ならでは、そして村という特殊な環境ならではの濃厚な人間関係は、かえって新鮮に感じられるのではないでしょうか。

洪作が住んでいた子供の世界では、自分の感情をただ爆発させていれば、ある意味ではそれでよかったわけですね。

しかし物語の後半では、洪作はそうした子供の世界から少し離れて、大人の世界に足を踏み入れていくことになります。

洪作を見る周りの目が変わってくるわけです。いつの間にか共同風呂で女湯には入れなくなり、女の子と一緒には遊ばないようになりました。

女の子と歩く時は、変な噂が立てられないように気をつけなければなりません。

そうした子供から大人へ歩んでいくの洪作の成長が丁寧に描かれた物語です。エピソードの一つ一つがとても感動的で、登場人物の言葉が胸に残る名作だと思います。

600ページ弱と、少し長い小説ですが、興味を持った方は、ぜひ読んでみてください。

明日は、仁木悦子『猫は知っていた』を紹介する予定です。