H・G・ウェルズ『タイムマシン』 | 文学どうでしょう

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タイムマシン (光文社古典新訳文庫)/光文社

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H・G・ウェルズ(池央耿訳)『タイムマシン』(光文社古典新訳文庫)を読みました。

もしも過去に戻れたら。あるいは、未来を覗くことができたら。誰もが一度はそんな風に思ったことがあるはずです。

場所の移動ではなく、時間の移動をするタイムトラベルは、すべてが〈現在〉とどこか繋がっているだけに、絶対に到達できない未知の世界であると同時に、全くの未知の世界でもないという所に面白さがあります。

たとえばファンタジーや宇宙を舞台にしたSFなどで、未知の世界に行った場合、それは「知らない世界」ですよね。自分の世界との結びつきはありません。

一方、タイムトラベルで時間軸を移動した世界は、自分がいた〈現在〉と関わっている世界なだけに、「知っているようで知らない世界」でありながら、「知らないようで知っている世界」でもあるわけです。そこに何よりの魅力があります。

さて、今回紹介するH・G・ウェルズの『タイムマシン』は、タイトル通り、時間軸を移動することのできる「タイムマシン」が登場する、言わずと知れたタイムトラベルものの金字塔です。

物語の形式や、内容は古典的でありながら、今なお面白さのある小説ですが、タイムトラベルものの面白さを求めて読むと、感覚としては少し違うかも知れません。

タイムトラベルものの面白さというのは、やはりなんと言ってもタイムパラドックスの要素にあります。これは断言できます。

タイムパラドックスというのは、タイムトラベルをしたが故に生じてしまう矛盾のことです。

たとえば、この間紹介した上田誠の『サマータイムマシン・ブルース』は、壊れる前のクーラーのリモコンを取りに、タイムマシンを使って前日にタイムトラベルする話ですが、もし過去に行ってクーラーのリモコンを取ってしまうと、それは過去を変える行為に他ならないわけで、時間の流れが変わり、自分たちの知っている〈現在〉が揺らぐこととなります。

パラレルな世界が生じるのか、〈現在〉の自分たちの存在がなくなってしまうのか、タイムパラドックスをどう描くかはその作品ごとに違いますけれど、こうしたタイムパラドックスが生じる面白さが、タイムトラベルものの何よりの醍醐味なんです。

ところが、H・G・ウェルズの『タイムマシン』では、タイムトラベルは描かれますが、そこにタイムパラドックスは生じないんですね。

それが何故かと言うと、タイムトラベラーは未来にタイムトラベルするからです。タイムトラベラーが何をしようが、その反動が〈現在〉に影響を与えることはありません。

タイムトラベル先の未来は、近未来ではなくて、ぶっ飛びの80万2701年です。それだけ未来の世界ともなると、人類の姿は大きく変わってしまっていて、もはや別の惑星に行って、宇宙人と会うのとなんら変わりません。

タイムパラドックスが生じる面白さはありませんが、『タイムマシン』では、そうした未知の世界での冒険が描かれる面白さがあります。未来人の謎、迫り来る恐怖、命の危機。

様々な困難を乗り越えて、無事に〈現在〉に戻れるのか? というのが物語の主流の流れとなります。冒険小説的な面白さがある小説なんですね。

そして重要なのは、タイムトラベラーが未知の世界の謎、つまり〈現在〉に比べて未来は何故こうなったのかを探求していくことです。

そうすると、あることが見えて来るんですが、それが現代社会の諷刺になっています。つまり、このままの現代社会が続いていくと、こんな世界になってしまうよという警告になっているわけです。

『タイムマシン』は、未知の世界の人々の様子を描き、それが現代社会の諷刺になっているという点で、H・G・ウェルズが影響を受けたとされる、ジョナサン・スウィフトの『ガリバー旅行記』と似ている部分がたしかにあります。

SF的と言うよりも、冒険小説的であり、諷刺的な側面の強い『タイムマシン』。H・G・ウェルズが描く未来の世界は一体どんなものだったのでしょうか。

作品のあらすじ


具体的な人物名は伏せられているため、最初から最後までタイム・トラヴェラーと呼ばれる、ある優秀な人物の所に、医者や心理学者、新聞の記者など、知識人が定期的に集まっています。

それはみんなで食事をしたり、様々な事柄について話し合う集まりで、そこにこの文章の書き手である〈私〉も参加しています。

ある時、いつものようにみんなで集まりますが、当のタイム・トラヴェラーがなかなか姿を現しません。やっとやって来たタイム・トラヴェラーを見て、「おおっと、どうした! 何だ、その格好は?」(27ページ)とみんなは驚きます。

服は泥まみれ、体中が傷だらで衰弱した様子のタイム・トラヴェラー。なんとタイム・トラヴェラーはタイムマシンを発明し、はるか未来へ行って来たというんですね。一体何が起こったのでしょうか。

タイム・トラヴェラーの語る不思議な経験の話を書きとめたのが、この文章です。ここからはタイム・トラヴェラーが〈私〉になります。

〈私〉は自らが発明したタイムマシンに乗り、緊張しながら発進レバーを倒しました。すると、夜が来たと思えば昼になり、時間がめまぐるしく過ぎ去って行きます。研究所はやがて更地になりました。

間断なく忙しい光の明滅は眩暈を催すほどだ。その一瞬一瞬の暗黒を縫って、月が新月、上弦、満月、下限の周期で盈ち虧ける。星座は巡る。そうするうちにもさらに速度が増して、脈打つように反転をくり返していた夜と昼は一続きの灰色に溶け合った。(36ページ)


4次元を移動している最中はいいのですが、止まる時になにが起こるか分からないんです。自分の体の原子と止まる先の原子がぶつかって体が破裂してしまう恐れもあります。

それでも意を決して、制動レバーを押すと、タイムマシンは裏返しになって、〈私〉はその弾みで地面に投げ出されました。雷鳴が轟き、雨まじりに降る雹。緑生い茂る大地。

〈私〉が目にしたのは、白い大理石で建造された巨大なスフィンクスです。未来の世界は一体どんなものなのか、好奇心と不安とが入り混じる気持ちで辺りを見回している〈私〉の所へ、未来人の一団がやって来ます。

未来人は、こんな風に描写されています。

髪は申し合わせたように縮れ毛で、頬から首へかかるあたりで切り揃えている。顔は鬚がなくてすべすべだ。耳は極度に小さい。口も小さくて、薄い唇の赤いのが目立つ。顎はちんまりととがっている。潤んだような目は大きい。(45ページ)


みんな子供くらいの背丈しかなく、よく言えば無邪気、悪く言えばちょっと頭の足りない感じです。〈私〉はタイムマシンから発進レバーと制動レバーを外してポケットにしまい、未来人について行きました。

そこには争いもなく、平和で牧歌的な穏やかな暮らしがあります。未来人の文化や言葉を学び、未来人の生活を理解した〈私〉は〈現在〉に帰ろうと、タイムマシンを置いておいた場所へ戻ります。

ところが、なんとタイムマシンが影も形もなくなっていたんです。愕然とする〈私〉ですが、どうやらタイムマシンはスフィンクスの内部に運び込まれたらしいことが分かります。

「誰かがマシンを白いスフィンクスの胎内へ運びこんだ。何のために?」(75ページ)

タイムマシンを奪還するために、しばらく様子を見ることにした〈私〉に、思わぬことが起こります。川で溺れていた未来人を助けたら、慕われるようになってしまったんです。

ウィーナというその未来人の娘と〈私〉は一緒に暮らすこととなりますが、ウィーナは何故か、暗闇を極度に怖れます。ある時、〈私〉はその理由を知りました。暗闇で活動する野獣を目撃することによって。

薄汚れたような白っぽい体と、灰色がかって不釣り合いに大きな、血走った目。頭から背中へかけてばさばさした金茶の毛、なにしろ、ほんの一瞬で、よく見えない。だいたい、四つん這いに懸けていたのか、腕を長く前に垂らしていたのか、それさえはっきりしないのだよ。(82ページ)


やがて、〈私〉はその野獣も、人間の子孫だということに気がつきます。貴族やお金持ちなどの特権階級は地上で暮らすイーロイ人に、労働者階級は、暗闇でしか暮らせないため地下に生息するモーロックになったんです。

タイムマシンを奪い返すためには、スフィンクスの内部にある恐るべきモーロックの巣に入って行かなければなりません。

はたして、〈私〉は無事に〈現在〉へ戻ることができるのか!?

とまあそんなお話です。二分化した人類が、現代社会への諷刺になっているわけですが、イーロイ人とモーロックの関係は、単に二分化した人類と言えないものがあるので、ぜひ注目してみてください。

『タイムマシン』におけるタイムマシンは、空間的な移動はしません。発進レバーを押すと、その場に止まったまま、時間だけがものすごい勢いで過ぎていくという仕組みです。

タイムトラベルものというよりは、わりと『猿の惑星』に近い感じというか、未知の惑星での冒険を描くような感じです。150ページほどの短い小説なので、興味を持った方は、ぜひ読んでみてください。

おすすめの関連作品


宇宙飛行士が地球へ戻ったと思ったら、そこは猿が人間を支配している星だったという『猿の惑星』のシリーズもおすすめですが、タイムトラベルという点にスポットをあてて、『きみがぼくを見つけた日』という映画を紹介したいと思います。

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タイムマシンを使ってタイムトラベルをするにせよ、何らかの能力でタイムトラベルするにせよ、そこには必ずと言ってよいほど目的意識があります。つまり、自分の意志でタイムトラベルするわけですね。

『きみがぼくを見つけた日』が面白いのは、「タイムトラベルする物語」なのではなく、「タイムトラベルしてしまう物語」な所です。

主人公は能力的なタイムトラベラーなんですが、体質的に勝手にタイムトラベルしてしまうんです。いつタイムトラベルが起こるか自分でも分からず、しかも体しか移動できないので、タイムトラベル先ではいつも裸で困っています。

ある時、1人の美女と出会います。全然知らない女性なんですが、その女性はタイムトラベラーのことを知っていて、ずっと会いたかったと言うんですね。

その後で、タイムトラベルしたのが、その女性がまだ少女だった時代で・・・。2人の出会いが断片的に描かれていく、タイムトラベルとラブストーリーをうまく融合させた物語です。

もしも恋人がタイムトラベラーだったら? という観点で書かれた、オードリー・ニッフェネガーの小説を映画化した作品で、着眼点が非常に面白い作品だと思います。

恋人がタイムトラベラーであることの喜びと悲しみが描かれた映画です。機会があればぜひ観てみてください。

明日は、リチャード・バック『かもめのジョナサン』を紹介する予定です。