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森鷗外『阿部一族・舞姫』(新潮文庫)を読みました。
記事自体がちょっと長くなってしまったので、まあお時間のある時にでも・・・。
「舞姫」は国語の教科書などでお馴染みの作品かも知れませんね。冒頭の2編、「舞姫」と「うたかたの記」は文語体で書かれているので、やや読みにくいかと思います。
もしもつまずいてしまいそうだったら、後半の作品から読んでみるとよいですよ。「余興」「じいさんばあさん」「寒山拾得」辺りが特に読みやすいです。
作品のあらすじ
『阿部一族・舞姫』には、「舞姫」「うたかたの記」「鶏」「かのように」「阿部一族」「堺事件」「余興」「じいさんばあさん」「寒山拾得」の9編と、「附寒山拾得縁起」という「寒山拾得」を書くに至った経緯の書かれたものが収録されています。
「舞姫」
官僚である〈余〉こと太田豊太郎は、ドイツのベルリンに洋行(留学)することとなりました。勉強に打ち込み、3年ほどが過ぎたある時、〈余〉は古寺の門の扉の所で泣いているエリスという少女と出会います。父親が亡くなったのに、葬式のお金がないと言って泣いているエリス。エリスが唯一頼りにできるのは、自分が所属している「ヰクトリア」座の座頭のシヤウムベルヒなんですが、助けてくれるどころか、弱みにつけ込まれそうになっています。
困って泣いているエリスに、〈余〉はお金を貸してあげました。それ以来、〈余〉とエリスは親交を深めていくこととなります。
この時2人はまだ清い交際なのですが、エリスが女優だということもあり、周囲はあまりいい目では見ません。告げ口された〈余〉は、仕事を失ってしまったのでした。
なんとか新聞の通信員の職についた〈余〉は、母子で暮らすエリスの家に同居し、「有るか無きかの収入を合せて、憂きがなかにも楽しき月日を送り」(21ページ)ます。
やがて〈余〉は、友人の相沢謙吉と大臣に会うこととなります。相沢は〈余〉にこう言います。「学識あり、才能あるものが、いつまでか一少女の情にかかづらひて、目的なき生活をなすべき」(25ページ)と。
すると〈余〉はそれにつられて、ある約束をしてしまいます。
貧きが中にも楽しきは今の生活、棄て難きはエリスが愛。わが弱き心には思ひ定めんよしなかりしが、姑く友の言に従ひて、この情縁を断たんと約しき。余は守る所を失はじと思ひて、おのれに敵するものには抵抗すれども、友に対して否とはえ対へぬが常なり。(26ページ)
つまり、エリスと別れることを約束してしまったんです。はたして、〈余〉とエリスとの関係の行方は・・・!?
「うたかたの記」
美術学校の向かいにある「カツフエエ、ミネルワ」という店に、2人の男が入って来ます。常連のエキステルが、ドレスデンで出会った巨勢を連れて来たんですね。店の中のエキステルの知り合いたちの中に、1人の少女がいました。巨勢と少女はお互いを見て、少し驚いた様子です。
巨勢がかつて出会ったすみれ売りの少女に強い印象を抱き、その少女をモデルに絵を描いているという話をすると、「われはその菫花うりなり。君が情の報はかくこそ」(46ページ)と言って、少女は巨勢の額に接吻をします。
帰り道にエキステルから話を聞くと、少女は美術学校のモデルなんですが、「奇怪なる振舞するゆゑ、狂女」(48ページ)だと思われているらしいんですね。要するに、ちょっと頭のおかしい少女だと思われているんです。
しかし、それが偽りの姿であったことが、少女の口から語られていくこととなります。少女の父親は国王に気に入られた画家だったんですが、王宮で開かれた宴に夫婦で出席した時に、あることが起こりました。
国王は少女の母親を愛してしまったらしく、追い回したんです。少女の父親はなんとか母親を助けるんですが、それから国王の元から離れることとなり、貧乏のまま少女の両親は病気で亡くなってしまいました。
それから少女は、色々と辛い目にあい、男に言い寄られないように、頭のおかしい振りをしていたというわけです。
国王は、頭がおかしくなったとされて、スタルンベルヒの湖の近くにある城で暮らしています。ある時、巨勢と少女がスタルンベルヒの湖を訪れると・・・。
「鶏」
石田小介は少佐参謀になって、福岡県の小倉に赴任します。そこで家を借りるんですが、一緒に住む手伝いの婆さんや別当(馬の飼育をする人)と微妙な軋轢が生まれてきます。それが石田の戸惑いとして書かれるのではなく、婆さんが石田をけちで物の値段が分からない馬鹿だと思っている描写がされるなど、極めて客観的な筆致で書かれていくのが特徴的です。
石田が鳥を飼うと、同じ所で別当も鳥を飼うんですね。ところが、別当の鳥しか卵を産みません。婆さんが言うには、「こねえな事を言うては悪うござりまするが、玉子は旦那様の鳥も生まんことはござりません。どれが生んでも、別当さんが自分の鳥が生んだというのでござりますがな」(80ページ)ということらしいんです。
その婆さんは婆さんで、石田が出勤すると風呂敷包みを持って家を出て行くらしく・・・。
善悪ではなく、石田と田舎の人々の価値観の違いが浮き彫りになるような短編です。
「かのように」
五条子爵の息子、秀麿は「国史は自分が畢生の事業として研究する積り」(105ページ)だと言って、古代インド史を題材にして卒業論文を書き、大学を卒業しました。勉強熱心な秀麿ですが、いつもどことなく元気がありません。心配した五条子爵は息子をドイツのベルリンに3年ほど洋行(留学)させてやります。
秀麿は勉強を重ねて無事に帰国しますが、実は大きな壁にぶつかってしまい、学問的な研究がなかなかうまくいかないんですね。
画家を目指している友人、綾小路は、悩んでいる様子の秀麿にこう語りかけます。
「しかしね、君、その君が言う為めに学問したと云うのは、歴史を書くことだろう。僕が画をかくように、怪物が土台になっていても好いから、構わずにずんずん書けば好いじゃないか。」
「そうはいかないよ。書き始めるには、どうしても神話を別にしなくてはならないのだ。別にすると、なぜ別にする、なぜごちゃごちゃにして置かないかと云う疑問が起る。どうしても歴史は、画のように一刹那を捉えて遣っているわけにはいかないのだ。」(139ページ)
秀麿が西洋でぶつかった考えというのは、宗教と科学にどう境界線を引くかという問題です。
キリスト教で言えば、人間は神によって作られたものですが、ダーウィンの進化論からすれば、人間は猿から進化したものなわけです。ここに難しい問題を孕んだ大きな対立があります。
学問を重ね、自国の歴史を正確に書こうとすればするほど、神話を除外しなければならないと思うようになった秀麿。
しかし、そうすると天皇は神であるという思想から離れるわけで、それは周りから見ると危険思想になってしまうわけですね。そんな近代的とも言える秀麿の悩みを描いた短編です。
「阿部一族」
大名である細川忠利が病の床に伏せた時、家臣は皆、殉死を願い出ました。許しが出たら、細川忠利が亡くなった後、自分も後を追って切腹するわけです。ここにはなかなか難しい問題が潜んでいて、単に殿様を慕っているということだけでなく、殉死するのが忠義であり、殉死しなければ、忠義が疑われて周りから白い眼で見られてしまうんですね。
18人が殉死しますが、阿部弥一郎右衛門通信という家臣は、殉死が許されませんでした。万事卒なくこなす弥一郎右衛門は、なんとなく他人から反感を買ってしまうことがあって、細川忠利からついに許しが出なかったんです。
周りから「阿部はお許の無いを幸に生きているとみえる」(170ページ)と馬鹿にされた弥一郎右衛門は・・・。
弥一郎右衛門の息子たちの代まで続く因縁と、武家社会の外面と内面に潜む醜さを描き出した短編。
「堺事件」
鳥羽伏見の戦いが終わった頃。堺にフランスの水兵が上陸します。住民たちは外国人に慣れていないので、驚き戸惑います。その混乱を見て、日本の兵隊は、フランスの水兵を一斉射撃するんですね。13人のフランスの水兵が亡くなりました。これが当然、国際的な問題となります。
兵隊たちは死刑にされることになります。しかし、納得のいかない兵隊たちは、重役に会いに行きました。
「黙れ。罪科のないものを、なんでお上が死刑に処せられるものか。隊長が非理の指揮をしてお前方は非理の挙動に及んだのじゃ。」
竹内は少しも屈しない。
「いや。それは大目付のお詞とも覚えませぬ。兵卒が隊長の命令に依って働らくには、理も非理もござりませぬ。隊長が撃てと号令せられたから、我々は撃ちました。命令のある度に、一人一人理非を考えたら、戦争は出来ますまい。」(213ページ)
訴えが通り、兵隊たちは罪人として死刑になるのではなく、名誉ある切腹をさせてもらえることになりました。死後は士分扱いと言って、武士の身分になれます。
そして、いよいよ切腹の日がやって来て・・・。
「余興」
〈私〉は柳橋の料亭で開かれる同郷人の懇親会に出席します。余興として、「赤穂義士討入」の浪花節が始まります。これが〈私〉にとって、苦痛以外の何物でもなかったんですね。私は幾度か席を逃れようとした。しかし先輩に対する敬意を忘れてはならぬと思うので、私は死を決して堅坐していた。今でも私はその時の殊勝な態度を顧みて、満足に思っている。(240ページ)
宴会が始まり、若い芸者がお酌をしに来ます。その芸者とのやり取りで〈私〉は、はっとあることに気が付き・・・。
「じいさんばあさん」
ある大名の屋敷で、離れの空き家が修復され、じいさんがやって来ます。数日すると、ばあさんがやって来て一緒に暮らすようになりました。この仲のいい2人は夫婦なのか、兄妹なのか、一体どういう関係なのだろうと周りの人は不思議に思います。
じいさんとばあさんの若い時の話が語られていくことになります。じいさんは美濃部伊織という武士で、ばあさんはその奥さんのるんと言います。
若い頃の伊織はある時、刀屋で質流れだといういい刀と出会うんですね。ところが代金の150両の持ち合わせはなく、値切りに値切っても足りない30両を、同僚の下島甚右衛門に借りて、なんとか刀を買いました。
友達を集めて刀の披露をする会を開いていると、呼ばれなかったことを不快に思った下島がやって来ます。「借財のある身分で刀の披露をしたり、月見をしたりするのは不心得だ」(253ページ)と言って膳を蹴飛ばした下島。
顔色を変えた伊織は、刀に手を伸ばし・・・。
「寒山拾得」
唐に閭丘胤という官吏がいました。閭は頭痛に悩まされていたんですが、豊干という僧がまじないで治してくれました。閭は豊干に、これから自分は台州に行くのだが、会ってためになるような人物はいないかと尋ねます。すると豊干はこう答えます。
「さようでございます。国清寺に拾得と申すものがおります。実は普賢でございます。それから寺の西の方に、寒巌と云う石窟があって、そこに寒山と申すものがおります。実は文殊でございます。さようならお暇いたします。」こう言ってしまって、ついと出て行った。(263ページ)
閭は寒山拾得に会いに、国清寺に向かい・・・。
とまあそんな9編が収録された短編集です。「舞姫」はなんだかもうお馴染みすぎて、なにかを語ることが難しいですね。
太田豊太郎とエリスの強い結びつきが、状況としては理解できても、感覚としてはなかなか共感しづらい作品だと思いますけれど、つつましくも幸せな生活を送る2人という情景だけで、なんだかいいなあと思わされるものがあります。
それだけに、太田豊太郎の態度にぼくは納得いかないんですよ。愛を取るか立身出世を取るか、そのどちらかを選ぶような話のように見えて、太田豊太郎は流されるだけで、実はなにも選び取っていないんです。
何かを犠牲にしても、自分の意志で選び取るんだったら、ある程度納得いくと思うんですけども。みなさんは、「舞姫」にどんな感想をお持ちですか?
「うたかたの記」は、さすがにちょっと文章的に読みづらい作品ですし、ストーリーにもやや無理がある感じであまり楽しめませんでした。
ただ、頭がおかしくなるほどなにかに夢中になれるという点では、突出した感覚が描かれている作品だとは思います。
やはりストーリー的に面白いのは、「阿部一族」「堺事件」「じいさんばあさん」などの歴史ものです。
どれも武士の「体面」のようなものが描かれているのが、とても印象的でした。「自分はこう思う」ではなく、「武士とはこうあらねばならない」というような、内面と外面のずれのようなものが、悲劇的な展開に結びつく話なんですね。
中でも印象的だったのが「堺事件」だったんですが、引用した箇所だけでも、なにかを感じてもらえたのではないかと思います。
ここで描かれている、「一体誰に責任があったのか?」という問題は、遠い過去の時代の特殊な人々のみの問題ではなく、現代における様々な問題とも共通するものがありますよね。
色々と考えさせられる作品で、あらすじで紹介した後の展開もなかなかにすごいですよ。
「鶏」「かのように」「余興」は、なにかの考えとなにかの考えがぶつかり合う面白さがあります。個人的に好きなのは「余興」ですが、重要なのはやはり「かのように」でしょう。
タイトルになっている「かのように」という語について、少しだけ補足しておくと、ドイツ語の「アルス・オップ(Als Ob)」とフランス語の「コム・シィ(Comme si)」という語が作中に出て来ます。
巻末の注によると、どちらも「あたかも・・・・・・かのように」という意味らしいです。
秀麿はこう言います。「人間の知識、学問はさて置き、宗教でもなんでも、その根本を調べて見ると、事実として証拠立てられない或る物を建立している。即ちかのようにが土台に横たわっているのだね」(137ページ)と。
つまり、宗教的なものを突き詰めて考えていくと、科学的に分析することのできない曖昧なものが浮かんでくるというわけです。秀麿はこの曖昧なものを重要視します。
つまり、宗教と科学、神話と歴史を分断させようとしたり、或いは、宗教や神話を捨て去ろうと思うから、危険思想になってしまうわけです。
なので、「信じられているものを、あるかのように」見ればいいんですね。科学的なものを認識した上で宗教を受け入れたり、神話がある程度伝説に過ぎないことを認識した上で神話を受け入れればいいというわけです。
この秀麿の考え方が、旧時代の人間である父親と対立するものなのか、あるいは共通したものがあるのか、親子の考え方に注目しながら読んでみてください。
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小林正樹監督で仲代達矢と三國連太郎が共演しています。1962年の映画なので、少し古いですが、鳥肌ものの傑作ですよ。素晴らしい映画です。
決して派手な映画ではありませんが、話の構造が込み入っていて、文学が好きな人であればあるほど夢中になってしまう感じの映画だろうと思います。機会があれば、ぜひ観てみてください。
武士の屋敷に仲代達矢演じる浪人がやって来ます。そこで切腹させてくれというんですね。
浪人しているとお金がないわけで、なかなか食べていけません。つまり、ここで切腹されては困るからと、多少のお金をもらうのが目的なわけです。まあ、ゆすりのようなものです。
その屋敷を預かる三國連太郎演じる家老は、腹の座った男なので、お金を払わずに切腹させようとします。
物語はほとんど浪人と家老のやり取りだけで進んでいくんですが、やがて、思いも寄らぬ方向へ物語は動いていきます。実は、浪人はある目的を抱いてやって来たんです。
その浪人が何故その屋敷にやって来たのか初めは分かりませんが、それが分かった時、ぼくら観客は思わずごくりとつばを飲み込んでしまいます。
それからは、この浪人と家老の議論を食い入るように見つめることになるわけですが、それがもうまさに火花散るようなやり取りなんです。最高のディベート(討論)映画でもあります。
静かな佇まいの中に、揺るがない侍魂を見せる仲代達矢もいいですが、なによりも三國連太郎の迫力がもうただ事じゃないんです。すごいですよ。
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明日は、芥川龍之介『地獄変・偸盗』を紹介する予定です。