深く、深く。
まるで退行催眠をかけられた人のように、
ゆるりの水面を遡流しながらその身を委ねて。
死が穏やかであるように、生もまた穏やかであったこと。


シネマな時間に考察を。

『ブンミおじさんの森』
2010年/タイ・英・独・仏・西/114min
製作・脚本・監督:アピチャッポン・ウィーラセタクン
出演:タナパット・サーイセイマー、ジェンチラー・ポンパス


羊水の中、胎芽の頃に見た景色。或いは前世の記憶のように。


この映画と出会う観客はみな、冒頭の黒い水牛となる。
木に繋がれたロープが切れ、夜の森へと彷徨い出る。
暗闇に目が慣れる頃、それぞれに出会うであろう精霊たち。
生きとし生けるものたちの棲家としての森、その闇が包み込むものとは。
間断なく耳に触れる虫の声に紛れ、身内に感じるただひたすらの、気配。


シネマな時間に考察を。 森の中に広がる闇がこうも優しく柔らかいものだったとは。ついぞ忘れていた記憶のように、或いは生まれ落ちた瞬間に刷り替えられた記憶のように、またはこれがあるべき記憶だったかのように、透明で深遠な息吹に漂う神秘的な生死観。人と精霊、前世と現世、そして来世。


その境界に触れることには微塵の恐怖も存在せず、疑心も猜疑も戸惑いさえなく、森の奥に広がる静かの洞窟に、かつての母胎の安らぎを覚える。


シネマな時間に考察を。 死を受け入れること。または死を見送ること。
身近な人を亡くした経験のある人ならば、深く共鳴するだろう。生と死がこんなにも自然であったなら、一体どれほどの人が救われるだろうかとふと思う。現代に生きる都会人の私達には見えないものの全てがここに在る。


輪廻転生、森羅万象。流転する命の聖なる連なり。
アジアでしか描けないこの仏教的世界観を神秘的で崇高なファンタジーとしてフィルムに投影し、不可視なものに既視感を与える魔法のような手法がスクリーンに煌り伝播する。驚きだ。


シネマな時間に考察を。 生きているうちに積み重ねた業のこと。ブンミは己の死の理由をカルマだと言った。いやはや人の姿に転化した者はカルマを負わずには生きられない。人の業は地上の風となり、輪廻によって滝壺の中で昇華する。人の姿の死と引き換えに。けれど決して恐れることではないことを、精霊たちが教えてくれる。紅い目でその先を導いてくれる。


万物にも万象にも精霊は宿り、輪廻転生がある一方で、1つの事象はいずれ全てが自然へと回帰するように定められている。

いったん無になり、そしてまた有になる。


難解であることを否定はしない。けれど恐らく必要なのは理解ではない。安楽椅子で目を閉じて、深い潜在意識の層へと沈み込めばいい。それでもなお、森の闇に囚われ迷子になってしまうのか、はたまた意識の狭間で混濁してしまうのか、それとも闇に射す一条の光を辿って昇天するかは観る者のこころ次第だから。


シネマな時間に考察を。 全編にわたって自然の零すサウンドだけで全てを満たしていたこの映画の、エンドロールに紛れて突然聞こえてくるのは、録音機をいじるような固い音、妙にリアルなぼそぼそとした人の声。


思わずはっとなる。『桜桃の味』のラストを喚起させるこの胸のざわめきに一瞬たじろぐ。ただただ心地よく、観念的な精神世界と映像美にふわり漂うばかりを許さぬとでも言うように、陶酔しきった魂にコン、と1つノックを付与され覚醒する。人として輪廻のサイクルに参加した以上、現実に対する責任があるのだと言わんばかりに。


けれどもそれは束の間のこと。
やがて心はブンミとともにまた深い深い森の奥へ。
木々のざわめく風の向こう。水面に紋を描く渦の中へと。


こんなふうにまだ見ぬ場所へと心を連れて行かれるような、

そういう映画が私は好きだ。

あの森へ、洞窟へ、もう一度足を踏み入れこの身をしっとり浸したい。


そうして満たされたのちに生まれ変わった心はまた、
新たな物語を求めてときめいてゆく。


映画から映画へと際限なく渡り歩くこの魂は、
生きながらにして輪廻を繰り返す転生行為かもしれない。
シネマのあるシアワセを今、改めて深く感じ入る。



『ブンミおじさんの森』:

2011年6月23日 神戸アートビレッジセンターにて鑑賞



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どことなく、ジブリ。
実写化すると、こういう像を結ぶのかもしれない。


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超常的なシーンを含むラストも忘れられない。
彼が見たもののこと。それが意味するもののこと。
有の状態でありながら無の状態を透かし見ることがあったならば。
彼があの時見たものはそれだったのだろうか。
仏に仕える身となったばかりの彼にはまだ、順応できずに俗世に執着する弱さがあった。

その曖昧な精神の揺れが見せた、幻だったのかもしれない。