目に写る風景に風を感じて。
より鮮やかな赤のために、
その精神はカンバスの中へと昇華して。

シネマな時間に考察を。

『セラフィーヌの庭』
2008年/ベルギー、フランス、ドイツ/126min
監督:マルタン・プロヴォスト
出演:ヨランド・モロー、ウルリッヒ・トゥクール


ナイーヴ派、というらしい。
芸術教育を受けることなく、またどの派に属することもない画家を指す。そういった素朴派の才能に対して鋭い審美眼を持っていた、ドイツ人画商ヴィルヘルム・ウーデに見出されることとなる、実在したフランス人女性画家、セラフィーヌ・ルイの伝記的映画である。


シネマな時間に考察を。 昼間は家政婦として黙々と働きながら、仕事を終えると自室にこもり夜通し絵を描く日々。彼女の使う絵の具は、草木や蝋や羊の血などで調合したオリジナルのもの。絵を描くことは天からのお告げだと言う。誰に見せるでもない。飾る訳でもない。創作意欲は呼吸するような自然さで、歌うような滑らかさで彼女の内に流れている。


セラフィーヌの佇まいから貧しさによる悲哀が少しも感じられないのはどうしてだろう。着古して草臥れた衣服に身を包み、指先も足先も常に黒く汚れている。それなのに彼女は生きる目的、内なる喜び、密かなる愉しみを常にふわりと纏っている。家主の残り物のパン屑を食す時でさえ。


どうしても作れない色。
身の回りのものを使って独自に絵の具を創り出す彼女には、1つだけ自分では作れない色があった。それは、白色。白の絵の具だけは画材屋で調達する他ない。純真無垢で繊細なセラフィーヌに唯一作れない色、それが皮肉にも白色だったとは。


シネマな時間に考察を。 繊細な人だった。
真下か真上しか見ることのできない人だった。屈みこんでひたすら寡黙に床を磨き続けるか、床に置いたカンバスに向かって黙々と絵を描き続けるか。森の中では大木を見上げ空から吹く風を頬に感じ、草木と語らい天と語らう。2メートルのカンバスに描かれた作品の傍らに立ち写真を撮る時に、彼女は正面のカメラに視線を向けることをしなかった。インスピレーションは空から降ってくるとセラフィーヌは言う。
その視線の先は、天を向いていた。


振り幅が極端すぎて適度なバランスで視野を保つことができない。突然変わってしまった自らの環境にうまく順応することができない彼女は、やがて精神のバランスを崩していく。


いつかあなたの綺麗な字でわたしに手紙を書いてください。
セラフィーヌがウーデに言った言葉が心に残る。ウーデは彼女の絵に惚れて、セラフィーヌは彼の字に惚れる。一種の通い合う恋心をそこに見た気がする。もちろん普遍的な意味のそれではない。パレットの上で混ぜ合わされる絵の具と絵の具の融合に、どこか似ている。


女性を愛することのない筈のウーデが、湖の中にセラフィーヌの裸体を目にしてはっと息を呑んだのは、彼女があまりにも美しかったからだろう。贅肉のついた弛んだ肉体が、ではない。彼女の精神がまるでそこにある自然の一部であるかのように、或いは、性別を持たない絶対美を誇る天使の姿であるかのように、彼にはそう見えたから。


シネマな時間に考察を。 森羅万象を表す、より上位の現実を描写していると語られるように、セラフィーヌの絵に描かれるのは、木や草花や果実といったそこにある自然がモチーフとなってはいるものの、その描写は決して写実的ではなく、また印象派の筆致とも違う。もしかすると彼女の目にはそのままの姿で見えていたのかもしれない。何故なら彼女は自然との対話を持っていたから。セラフィーヌの視界は天使の視界に繋がっていたのかもしれない。


絵が呼吸している。
静止したカンバスの枠の中で、描かれたものたちがひそひそと何かを囁いているような錯覚を覚える。カンバスの中に“そよ風”が吹いているような。絵の中には一切の奥行きがないにも関わらず、彼女の絵は確かに生きて動いている気がする。優しい絵だけれど、どこか果てしない力強さを持つ。
言うなれば、生命の蠢きがそこにはある。


晩年ついに個展を開いたと告げることも、彼女に会うことさえも叶わなかったウーデが、最後に彼女のために計らった素敵な贈り物。1人掛けのガーデンチェアと、大木が見下ろす緑の丘。セラフィーヌにとってのそこは、やっと辿り着くことのできた天国。セラフィーヌが招待した天使たちの姿が、スクリーンには映らなくとも、彼女にはきっと見えていたはず。


大木の下、椅子に腰掛けるセラフィーヌの姿をミドルショットで捉えたラストカットは、それがまるで1枚の絵画であるかのような残像を残し、

幕を閉じる。


そのフレームの中には、やはり優しい風が吹いていた。
その風を心に受け、目を閉じる。


セラフィーヌの悲運と幸運を、ともに想って。



『セラフィーヌの庭』:2010年11月16日 元町映画館にて鑑賞