静寂の中でざわめくような謎の漂う、
美しく特殊な空間に囚われた若い娘の最後の選択。
フェティシズム香る、深くて切ないアブノーマルな物語。


シネマな時間に考察を。

『薬指の標本』
2004年/フランス/100min
監督:ディアーヌ・ベルトラン 原作:小川洋子
出演:オルガ・キュリレンコ、マルマルク・バルベ


シネマな時間に考察を。

炭酸飲料の製造工場で薬指を切ってしまった21歳のイリスは、ふと思い立ちこの港町へとやってきた。森の中にひっそりと建つ古めかしい研究室。そこでは依頼主が持ち込む“自分から遠ざけたいもの”を標本にするという。哀しい過去、拭えない思い出、消し去りたい記憶。逃れられない事実。標本にするのは思い出を温存するためではなく、むしろ封じ込めるため。彼らの過去はラボの中で永遠に封じ込められている。ゆらゆらと。


元は女子寮だったその原型を留めたまま今は研究所となっているラボ。まるで廃墟のようなそこは、当時の面影を亡霊のように肌で感じ、耳を澄ませば彼女たちの声が聴こえてきそうな気配すら漂っている。至る場所に無数に並べられた試験管。薄いグリーンの液体の中で標本物たちが静かに生き、或いは眠ったように生き、時々光に反射しては、僅かにきらめいてみせる。


ラボで最も静寂な場所は、その昔浴室だった場所。シャワーを待つ女学生たちのはしゃぐ声、立ち上る白い湯気、水滴の跳ねる音。それらが今は全てミュートされ、ただひんやりとする青い空間が広がるばかり。何も無いのに胸がざわめく。冷気が漂うのに胸の内だけが火照るような不思議な感覚をもたらして。

標本技師の男からプレゼントされたボルドー色のハイヒールは、驚くほどぴったりとイリスの足に馴染んでしまう。彼女はやがて囚われる。靴が足にすいつくように、身も心も縛られて。靴磨きの男が忠告した。どんなに履き心地がよくても履きすぎてはならない。靴があなたを侵し始めるからと。忠告は遅かった。足に靴のアザがつくほどに頑なに靴を履き続け、それによって彼に縛られようと自らを囚われの身に呈す。


シネマな時間に考察を。 ある種のアブノーマルな、ひどくフェティッシュな男の物語でありながら、静かに崇高な美しさと甘い官能が漂う。アングルや構図も計算されていて、映画的なモチーフとして印象的なアイテムも沢山登場する。汗ばむような蒸し暑さと、ひんやりとする冷気がバランスよく配置され、ピアノや鼻歌といった音の癒しがあり、ミステリアスな空気が絶えずゆらめいている。それはまるで試験管の中の液体のように。或いは工場のラインを流れる炭酸飲料のビンのように。


夜と朝の時間帯にわけてシェアリングするツインベッドの一室。部屋の中で彼らが会うことは一度もないが、クローゼットの中で彼と彼女の服は触れ合い、互いのシーツのシワや、サイドテーブルの上に置かれた物たちを通して相手を思う。右へ左へと寂しげにスイングする作業場のクレーンの画を一度はさんでおいて、その後イリスがそれにまたがりブランコのように大きくスイングするシーンを持ってくる。横に大きくモーションする彼女の傍らで彼がじっと座り込んでいるという、

<静>と<動>の画が同居するショットがとてもいい。


ラボをうろつく1人の少年。ラボの中のイリスの様子はたびたびこの少年の視線の先として描写されている。まるで実在していない何かの目線のように感じるのはなぜだろう。

床一面に散らばる麻雀パイ。イリスは一晩中、撫でるように床を這い、戯れるようにしてそれらを1つずつ拾い集める。その姿は標本技師への絶対服従を示すかのようで。靴磨きの男は言う。彼と離れられないのはその靴のせいだと。彼女がもし、その靴こそを標本にすると選んだならば、新しい人生が続いたかもしれない。けれど彼女が自らのラベルに印したのは靴ではなく、薬指だった。


<イリス 薬指 300g>

ラベルを作成したイリスは技師のいる地下室へと向かう。彼の永遠の“標本物”となるために。ドアの向こうに消えていった彼女の、その心が果てしなく切ない。ドアの向こうが目もくらむ光の中だったのは、イリスの精神的ハピネスの象徴だったのかもしれないけれど。


『薬指の標本』:2010年2月18日DVDにて鑑賞