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 久方ぶりにグロテスクな描写があります。耐性が無い方はご注意いただくが、慣れて下さい。
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青年と女とラジオ

 小さく舌打ちをし、女は受話器を本体へと半ば叩きつけるようにして降ろした。機構が下がり、金属と部品が噛み合う不愉快な音が廊下に響き渡った。

 そこは清潔な廊下だった。青みがかり丁寧に磨かれたリノリウムが敷かれた廊下は幅が広く取られ、多くの窓口が設けられており壁の掲示板には企業が無数の説明会募集チラシを貼り付けていた。

 窓口の上には学生部受付や資金部などという看板が下げられている。そこは大学の本館であり、学生達が諸々の手続を行う場所であった。

 ちょっとした病院の受付のようにも見えるホールから伸びた廊下、そこに据えられた緊急時用のグレーに染められた、今となっては珍しい公衆電話の前に一組の男女が居た。

 一人は喪服を連想させる黒づくめの服装をした矮躯の青年。もう一人は、青年の頭頂部が胸元にまリーバイス 502
リーバイス 511
リーバイス チノパン
でしか届かない長身の女性だ。男装に近しい服装をした女は不快そうにもう一度公衆電話の受話器を持ち上げる。しかし、返ってきたのは無機質な電子音のみであった。

 「くそ、駄目だ。電源は入っているが回線が死んでる」

 今度は半ば八つ当たり気味に受話器を放り投げ、受け口に返却しなかった。放り投げられた受話器はコードを引き伸ばし、構造に従って引き戻すと惰性で振り子の如く寂しげに揺れ続けていた。

 「震災時用の公衆電話が駄目となると、いよいよ以てよろしくないな」

 苦々しげに吐き捨てられる言葉。鋭い美貌を歪めながら長躯の女は壁際に立てかけていたエアライフルを担ぎ上げた。プリチャージ式のエアライフルには既に圧縮空気が充填されており、弾丸も装填されていた。

 「……どうしますか?」

 大ぶりなライフルを担いでいる女と対照的に、矮躯の青年は全くの無手である。警戒するように周囲を見回す目は厳しく、水揚げされた魚を想起させる無機質な瞳が鈍く輝いていた。

 「……一旦正門の方まで向かおう。軽く外を見てみた方が良い」

 そう言って女は足早に駆けはじめる。前方の曲がり角や死角を伺いながらも進み続け、電源が入っていない故にこじ開けた自動ドアの合間を潜るように表に出た。

 二人が居たのは広大なキャンパスを誇る大学の本館であった。一階には学生部や資金部などの施設が集中している大学運営の要となる施設だった。

 しかし、その中に人の気配は微塵も無い。何故なら今日は日曜日であり、その前日の土曜日には殆どの事務は仕事をせず、あったとしても昼には業務を終えてしまうので全員が帰宅しているからであった。

 こんな日に学内に残っているのは、数少ない応対の為に残された職員や少数の警備員程度だろう。前日に駅が使用不能になり、大学校内に取り残された人間が大なり小なり居たとしても、電車が止まった時刻とのラグがあるので職員は居るはずが無いのである。

 女はできるだけ足音を立てないよう、朝焼けに染まりつつあるキャンパスの中を青年を伴い抜けていく。目的地は本館前の西側大門だ。

 早足に歩きながら、女はどうしてこうなったのであろうと考える。確かに、昨日駅前で暴動が起こって大学に残ったのはおかしな事だったが、此処まで早く事態が進むなどあり得るのだろうか。

 電気は止まり、携帯も停波して使えず、テレビは試していないが恐らく駄目だろう。そして、頼みの綱の緊急回線も先程完全に沈黙していると分かった。ここまで完全に情報の行き来が遮断されているという事は、電波局云々よりも情報封止を疑うべきだろう。

 何か、諸外国や他の地域に知られたくないような事が起こったのかと女は考える。水道は生きているから、完全にインフラが死んだ訳ではないだろうし、情報ラインは国防の要だ。もしも仮に、映画の中で描かれるアウトブレイクが発生したとしても一息にインフラストラクチャーが全て死ぬなど考えられなかった。

 そして、校内をふらついていた歩く死体。どう考えても生物学的に死んでいなければならない状態でありながら歩き回る人間のような物。屋上から観察する限りにおいても、それは生者ではあり得ない存在だった。

 この学校にも放送局はあり、細々とした企画を作って色々と催し物を出したりイベントを立てたりすることがある。中には生徒や教授を対象にしたどっきりもあって、夜に特殊メイクの局員が生徒に襲いかかり反応を見るという物もあったと聞く。

 だが、あれは明らかに装いが違った。腐敗して血の気が失せ、蒼白というよりも灰に近く変質した肌。腹腔は完全に破られ、僅かに残った直腸が縁から千切れて溢れるのみ。ペイントではなく、しっかりとした奥行きを持つそれは演技ではありえない。

 最近の特殊メイク技術は凄まじいが、その多くは特殊メイクに付随して施される特殊効果や人形のおかげだ。実際に歩く人間の腹が肉眼で、中に何も無いと分かるような細工が一学生に出来る訳がなかった。

 それに、時間もおかしければ場所もおかしい。あんなに堂々とやる意味が無ければ、こんな早朝に誰がひっかかるというのだ。その事やインフラの停止から、女はこの事態が殆ど現実の物だと断じていた。

 一方で、青年も既に察しているようだ。鼻を擽る不愉快な鉄錆びにも似た香りと何かが腐った臭い。幼い頃に嗅いだ、犬の死体から立ち上るそれと同質の香りは偽りでも作り物でもない。

 それだけではなく、嫌というほど感じる本能的な危機感。常日頃から人の価値を理解できないが故に己を大切にする青年だからこそ感じられる、本能から発せられる警鐘が、この事態が決して嘘でないことを伝えていた。

 正門の近くまでやって来ると、東から上った陽光が門の差す影を祓ってゆく。朝焼けに照らされた空には雲一つ無く、夕焼けとは赴きの異なる淡い茜に染まる空は、何よりも清々しい物だが、そんな清々しさは正門の向こうに広がる光景と合わされば逆に惨劇を彩る悪趣味な演出へと姿を変える。

 人が居た。それ自体は珍しい事では無い。正門の側面には警備室があって常に警備員が屯しているし、大学の近くには商店が多く建ち並び駅もあれば飲み屋も多い、常に誰かしら行き交っている場所だ。

 だが、それらは賑やかに商品を運ぶ人々や、不健康な爽やかさに包まれる朝帰りの学生ではない。

 血にまみれ、肉体を欠損させ、意味の無い叫びを撒き散らすだけの人間だった何かであった。

 ある大学生のようなファッションをした青年には顔の肉が全て無かった。虚ろに穴を開けた眼窩から取り残された神経束がこぼれ、溢れ出た血が骨と筋肉の露出する顔面を涙の如く伝う。左腕は根元から欠けうげ、門の隙間を通して突き込まれた右手は所々が肉を失い骨を露出させていた。

 ほんの僅かなスペースしかない門の下、その隙間から体を差し込もうとし、肩の出っ張りに引っかかって失敗している少年の死体には下半身が無かった。虚ろに濁った白い瞳を此方に注ぎながら、まるで助けを求めるように腕をばたつかせている。部品が抜けたように開いた腹腔から臓物が溢れ、通りの向こうへと続いていた。引き摺りながらここまで這ってきたのだろうか。

 頭を一定の間隔で門に打ち付けているのは、この学校の青い警備服を着た警備員だった。帽子は何処かに失せ、引きちぎられたのか頭部からは頭髪は愚か頭皮さえ残っておらず、血に染まった黄色い頭蓋骨を覗かせている。そして、その首筋は大きく損壊し、血液が失せて気管の空隙が露わになっていた。

 他にも同様に酷い損壊を受けた死体が何体か門へと集っている。ある物は門の隙間より腕を伸ばし、ある物は車の衝突にも耐えうる門を無意味と知ってか知らずか叩き続ける。

 合間でこすれて肉が刮げようと、叩き続けて骨が折れたとしても彼等は動きを止めようとしない。この中に、ごちそうがあると分かっているかのように何時までも何時までも挑戦し続けるのだ。。

 青年は俄に胃液が食道を逆流するのを感じて体を丸めた。朝食を取っていないが故に腹は空っぽであっても胃液だけはある。常よりも酸味を増した液体が口腔に達したが、青年は耐えてそれを飲み下した。

 感じたのは気持ち悪さやおぞましさではない。問題となるのは、目にした事態の本質だ。表面上のグロテスクさなど全く問題とはなりえない。

 圧倒的なまでに心の奥に侵入してくる危機感。正しく、人間が太古の昔に置き忘れてきた本能が蘇り、その隣に佇む死を認識させてくる。

 それを、人は恐怖と呼んだ。

 恐ろしかった。大凡命に価値を見いだせない青年には縁遠い感覚の一つで、自分の命が大切であったとしても、他と比較できないので認識としては薄かったが、今になって、それを実感する。怖い、死にたくないと絡みつくような怖気に脳髄がかき回されるような感覚を覚えた。

 しかして、混乱する脳に一拍遅れて体は反応を始める。一度は飲み下した吐き気が強まり、今まで軽く気持ち悪かっただけの臭いが臭気を増したように感ぜられた。皮膚が泡立ち体幹が麻痺して軽く震えを宿す。始めて感じる命への危機、死への畏怖。青年の体は恐怖に絡め取られていた。

 されども、その隣に立つ者は違った。

 見られていない事を分かってか、それとも見られている可能性を認識しながらも抑えきれなかったのか、その口は……。

 喜悦に歪められ、両の端がつり上がっていた。

 ライフルをグリップする手に人知れず力が籠もる。磨き上げられた飴色の本体が鈍く抗議の音を上げ、僅かに本体が震えた。

 何が女の胸中で渦巻いているのか、それを伺い知る事はできない。ただ、女がこの事態に歓喜している、それだけは確かであった。

 瞳は狂気に輝き、口腔内においては興奮により唾液の分泌が激しくなる。女は唾液を嚥下しつつも、ぬめりを帯びた舌を僅かに歯列の間より覗かせ、乾いた唇を潤わせる。その動作は、酷く蠱惑的であると同時におぞましい物だったが、その様を見つめるのは知性無き死体のみだ。

 女は改めて正門の惨状を観察する。明らかに死体と化した物が寄せており門を叩いている。されども、内部に侵入し正門も付近に死体の姿は無い。よくよく見ると、通用門はしっかりと閉じて錠もかけられていた。そして、その通用口外側に警備員が一人倒れている。

 なる程、彼は職務に殉じて扉を閉めたのだろう。誇り高き警備員の遺体は見るも無惨に食い漁られ、制服の背面は殆どが引きちぎられて殆ど何も残っていなかった。

 では、警備員は何処に行ったのかと軽く首を伸ばして警備室をのぞき見るが、当然の如く不在である。学外学内何れかに逃げたか、それとも全滅したか。この有様が何らかの冗談で無い事の証左が一つ増えた。警備員が冗談で警備室を空にすることなどありえまい。

 明らかに生きている物ではなく、作り物とも思えぬ。更には状況証拠も揃っている。一度試してみて、これが何処までの性質の悪い冗談だったとしても釈明は可能だろうと女は踏んで、ライフルを構えて立射のスタンスを取る。

 「先輩……?」

 後輩の掠れた声が下方より投げかけられる。その声音は落ち着いており、女が狂笑を堪えている間に精神的平静を取り戻したのだろうか。だが、女は黙っていろとだけ言い構えを解きはしない。

 サイトの中央に大学生らしい死体を移す。狙うのは頭部だが額の中央ではなく眼窩だ。距離は五mも無いから外す事はあり得ないが、僅か4.5mmしかない弾丸で頭蓋を貫通するのは難しい。頭蓋は丸みを帯びているが故に衝撃の緩和に優れており、生半可な火力では威力を殺され頭蓋骨の表面を滑るように流れていくだろう。これは実包でも起こりうる事なのだ、実包に威力で劣るエアライフルであるならば尚更起こりうる事態である。

 故に、狙いは目だ。眼は柔らかく、そしてその柔らかな眼窩の向こうには神経束で無防備な脳が接続されている。骨の防備もあるにはあるが、それは上部ほど分厚くも頑強でもない。上手く狙えば、骨からの妨害を最小限に留めて脳を潰せる訳だ。

 ゾンビ映画の鉄則、弱点は頭部か頸椎。大脳を潰せば良いのか脳幹を潰せば良いのか疑問は残るが、形状的に目の奥から入って打撃できるのは人体構造的に小脳だ。ならば、威力不足のライフルでも目はある。

 しかし、女は万が一、億が一の可能性を思い、初弾の狙いを変更し腕へと銃口を逸らした。慎重にサイトをずらして着弾点を変え、何かを求めて突き出された手の中央にポイントする。

 そして、瞬間的に死体と自分の姿が被る。死に損ない、手を伸ばす己の無様な姿が女の脳裏に焼け付くように浮かび上がった。引き金は、絶頂の喜悦と共に絞られ、圧搾された空気の圧力で打ち出された弾丸は極めて小さな発射音と共に銃身の中を回転しつつ飛翔。銃口より脱した後に秒針が微動するよりも短い刹那に虚空を駆け抜け掌に突き立った。

 回転と加速によって与えられた運動エネルギーは、掌の着弾点にて法則に従って発揮され、死後時間が経って腐敗を始めた皮膚を脆く穿ち、肉を巻き込みながら中指の骨に食らい付く。頑強な骨は衝撃を受け止めようとするも耐えきれずに砕けるが、弾丸の直進性は減衰すると同時にねじ曲げられ、中指と人差し指の合間より突き抜けて虚空へと消えた。

 惰性で血管に残留していた血が僅かに飛び散る。如何に心臓の働きが停止していようとも大きな傷口が開いていれば血は重力に従って流れていくだろう。停滞し腐敗した血は肉に留まった物が殆どで、激しく飛沫くことはなかった。

 「……これはいよいよマジだな」

 女は構えを解き、不快そうな声を装いながらも内心にて喜びに震えた。正しく、彼女が内奥にして密やかに湛えていた欠陥にして狂気、それが解き放たれる環境が産まれたという事態に。

 「ロメロ映画の見み過ぎで気が狂いましたかね」

 腕の弾痕を見た青年は感情の失せた声で呟いた。女の背中が、また別の感慨で泡立つ。無機質な声、聞いていて心の何処かが不安になるような響き。これでは、電話の録音された音声案内の方が幾分か人間味に溢れていると感じられる声であった。

 ああ、なるほど、そしてやはり。女は声の質を聞くと共に、見下ろした青年の目を見て全てを察した。

 未だに身を撓め、屈めた上体を膝についた腕で保持し、僅かに口の端から抑えきれずに溢れた胃液を拭う青年だが、その目は死体を悉に観察するためしっかりと見開かれ、視線は上げられていた。

 この青年は時折こういった目をする。どぶ川に堆積したヘドロが腐敗し、更に雨で水分を得て攪拌され、澱の如く溜まった最も汚らしい部分のような目を。汚泥が如く濁った瞳は、その奥の脳髄が何らかの計算で回されている事を有り有りと表している。そして、それは大凡己の保身の為だろう。

 女は分かっていた、この青年のあり方を。人付き合いを言外に面倒くさそうにしながらも細やかに行い、気は見ていて不気味なほど行き届いて回る。人に不愉快さを感じない動作に言葉遣いと話題の振り方、もしも誰かを不快にさせるような内容の話題はのらりくらりと躱して交わろうとしない。青年は徹底的に避けているのだ、自分に不利益な事態を。

 降りかかる何かを避けて自らが楽に生きるために計算をする時に、このような目をすることを女は一年の付き合いの内に悟っていた。

 隠すまでもない、普通の人間は目の僅かな変化になど普通は気付かないのだから。眉根の動きや瞼の歪みが伴わなければ尚更だ。

 されど、女は気付いていた。目の変化に、そして濁りに。それは彼女が同類であるが故に。

 同病相哀れむという奴か? 等と内心で思いながら、女はライフルを再び構え直した。今一度狙いを付けるのは、一度外した虚ろな眼窩だ。

 弾丸が飛翔するコースを予測し、ほんの僅かな風を感じ取る。閉鎖されたシューティングレンジではないので微風があるが、それは1ノット、時速二kmにも満たない本当に緩やかな風だ。だが、エアライフルの弾丸は軽く威力が低い故に微風であっても受ける影響は大きい。故に、慎重に調整してから女は引き金を落とした。

 死体に被った己の頭部が背後へと跳ね……そして、足から力が失せて死体は地面に斃れ臥す。その姿に最早女の幻影は重なっていなかった。

 「ふむ、やはり定石通りか……映画知識も馬鹿にしたものではないな?」

 目標、人の形をしていた物に弾丸を叩き込んで倒したというのに、女は何も気負っていないような調子で吐き出した。事実、気にしてなどいないのだろう。アレは最早、終わった物なのだ。

 ゾンビ、動く死体が出てくる映画において、その弱点は頭部である事が殆どだ。ゾンビという存在概念がブードゥー教の刑罰から離れ、動く死者という概念を得て久しいが、黙せる死者であろうとも頭部を破壊されては生きて行けないというのは最早固定概念と化している。

 そして、今回の限りなくゾンビと思われる物を相手にするにあたって、似たような物だと仮説を立てて対応したが、仮説は適中しており、同時に証明が成された。

 厳密に概念を固めるのなら、他にも心臓を潰したり首を落としたり色々試すべきなのだろうが、とりあえず今はそれだけで事足りる。

 腐った西瓜玉をたたき割る、やらなければならないことは極めてシンプルであった。

 「古典的ですね」

 青年は言いながら通用門の方へと歩いて行く。その歩みからは最早震えは消えていた。

 青年は何時だって自分が楽に生きる事を念頭に考えて動く。その、単純にして明快なルーチンが恐怖を切り捨てて最適化させたのだ。生き残りたいのであれば、そういった人間らしい感性は不要だと。

 女が何を? と問うのを無視して青年は通用口へと向かい、その傍らに倒れている警備員の死体を悉に観察した。よくよく見れば、完全に露出した背中からは脊椎が奪われており、中身を刳り抜かれたカボチャの如く伽藍とした腹腔を覗かせている。

 足先を門の下からはみ出させて、軽く死体を突っついたが死体は起き上がらなかった。

 「……ある程度破壊されると死体は動き出さない、という事ですかね」

 一瞬で冷静に帰り、現状から仮説を導き出した青年に女は驚きを覚えた。この青年は単なる狂人ではなかったようだ。自己保全の為に全力を尽くし、常にスペックの限りを尽くさんとするルーチンを搭載した性質の悪い狂人だったらしい。

 「この感じからして頸椎、ないしは脊索の何れかが完全損傷したら起き上がらない? 既に起きている場合はどうなんだろうか……」

 独考を呟きとして零しながら青年は倒れ付した警備員の亡骸に手を伸ばし、腰にぶら下がっている大きなポーチへと手を伸ばす。黒革の多目的ポーチには通信機や折り畳みの特殊警棒が突き刺さっていた。

 「危ないな」

 「近寄ってきたら撃って下さい」

 当然のように言い放ち、青年はポーチから通信機と特殊警棒を引っこ抜いた。しかし、目線は上を向いていて門に向かっていた死体を見ている。

 「……近い物を優先する程度の知能はあると」

 そして、更に情報を引っ張り出す。青年が門から手を出していると、門を叩いていた死体がふらふらと此方へ向きを変えて歩き始めたのだ。一番手近な死体は警備員の死体に躓いて転倒し、強かに体を打ち付けながらも青年へと片手を伸ばし続けていた。

 「バランス能力は低く、障害物を認識して回避する程度の知能も無しと。それに……視覚情報は得ていない」

 死体は女よりも近くに寄った青年へと向かって歩き始めた。その上、警備員の死体に躓いて倒れて尚腕を伸ばしている。白濁した眼球では何も見えていないだろうに。

 だのに、青年の位置を割り出して歩いてきたという事から鑑みるに……。

 「臭いか音……もしくは両方だな」

 そうでしょう、と青年は女の言葉に同意した。死体は目で対象を探しているのではない、嗅覚と聴覚を頼りにしているのだろう。眼球が腐敗して鼻や耳が腐敗しないのは何故かと疑問が残るが、どういったメカニズムで彼等が動いているかさえ分からないのだ、その内容に関して議論するのは不毛の極地にあろう。

 歩く死体に論理の整合性を求めるのなど、些か滑稽に過ぎると言う物だ。

 臭いを辿られる可能性があるのは厄介だと女は歯噛みした。軽く腕を上げて脇の臭いを嗅いでみると、僅かな汗の臭いが漂う。自覚できる段階なので弱い臭いではあるまい。

 昨日は泊まりだったからシャワーを浴びられていないので仕方のないことだが、現状からは最悪だった。もしも臭いを追従するのであれば、このインフラが死んで体を洗って清潔を保ちづらい環境になると臭いを殺す方法が少なくなってしまうからだ。

 デオドラントを頼った所で臭いは消えない。あくまで不快な臭いでなくなるだけで香料の香りが付着する。人独特の何かを探しているのか分からないので、返って匂いを発するデオドラントの使用は危険だろう。

 ふと、この事態が解決しないという前提で考えを巡らせている自分が居ることに女は気付き、軽く笑った。普通ならば自衛隊や警察が解決してくれるはずだと考えるだろうに、自分は事態が解決、ないしは収拾しないだろうと思っているとは。

 映画では確かに警察や軍は無力に死体の前に敗れ去り駆逐される。しかし、現実的に考えればあり得ないだろう。軍の基地には数万単位で実包が備蓄され、銃は人員の数よりも多く備えられ対地戦闘機や攻撃ヘリコプターに戦車や装甲車がある。地を這う死体をどうして駆逐できまいか?

 まず、軍が本気を出せばフラフラ歩き回るだけの死体なんぞ、実に容易く駆逐されるだろう。人体を被服ごと引き裂くだけの膂力と咬合力を得ていようとも、所詮は人体だ。エナメルの歯では防弾プレートは破れず、防弾繊維を切り裂けない。如何に力があれども、どうやってナイフでも裂けない繊維を力だけで貫くのか。

 そして、言うまでもなく装甲板を破壊する術を彼等は持たず、遠距離からの射撃にも抗えない。弾を避けるだけの知性も素早さも無いからだ。

 これらの要素から、軍が本気を出せば死体なんぞあっという間に掃除されて終わりだろう。囲まれて歩兵が討ち取られる事はあれども、装甲兵器が破れる可能性は万に一つもあるまい。

 そこまで考えられるのに自分は世界の破滅を望んでいる。軍が事態を収拾できず、そして世の中に災いが溢れ続ける事を。

 やはり狂人は思考まで狂人なのだなと、女は自嘲気に嗤う。しかし、これは持って生まれた業だ、仕方あるまいと受け入れながら笑う女も心の片隅に居た。

 「先輩、どうします?」

 声をかけられ、我に返る。見やると、青年が伸ばした特殊警棒を門の外へとはみ出させ、まるで猫でも遊ばせるように死体の顔の前でひらつかせていた。

 どうやら、噛み付くかどうか確かめているようだ。しかし、死体は反応することなく、青年へと手を伸ばす事に躍起になり、歯に触れる位置まで達した警棒には興味を示しさえしなかった。

 この場合、青年が問うて来きた、どうする? という問いはこれからどうするかを聞いているのだろうが、言外に含まれている内容を女は繊細に感じ取った。

 即ち、死体と戦うか逃げるか、だ。

 青年も考えているのだろう、いずれ事態は収拾すると。

 自分達が無事である事から死体へ転化する理由は空気感染ではないと推察できる。ならば、軍、正確には準軍事団体である自衛隊に彼等を駆除できぬ訳が無い。故に、それまでどうやって生きながらえるか、それが質問の本旨であった。

 まず一つは、大学に引きこもること。西門は閉じられいて死体の侵入は阻まれ、東側の門も確実に確かめた訳ではないが閉じている。万一侵入されたとしても、各館ごとに階段には防火扉が設けられており、それさえ閉じれば死体は入ってこられない。分厚い合板の扉だ、幾ら殴り続けた所で破れはすまい。

 もう一つは大学から逃げ出し、もっと安全な所を探す事である。キャンパス内には職員用の駐車場があり、そこにある車を失敬して逃げ出す事も可能だ。ただ、映画の状況を考えると避難しようとした人達の車で幹線道路は詰まっているだろうから、行ける場所は限られているが。

 前者は兎角安全だ。静かに籠城し、自衛隊や警察からの救援を待てば良い。停電しているせいでテレビは見られないが、それでもラジオがあるから情報くらいは手に入るだろう。よくよく思い出せば女のスマートフォンにはラジオ機能も付いているし、探せば手回し充電のラジオも部室にあるはずだ。

 食糧も最悪大学のコンビニを収奪すればいい。来る途中にちらと見たが、大学のコンビニは生協の運営という形質上24時間営業ではないのでシャッターが降りていたが、如何様にもできる。そうすれば食糧は手に入るだろう。

 問題があるとすれば、自分達以外にどれだけが大学構内に残っているかだ。人間は大勢集まればパニックを起こす生き物である、彼等がどういった行動を取るかによって状況は大きく変わる。大きな不安要素を抱えるというデメリットがあった。

 そして、脱出することだが、これには危険が伴いすぎる。まず一つとしては車での脱出が難しいこと。校内を移動して駐車場まで行き、車を動かして門を開けて逃げ出す。最後の門を開ける事が難しい上に、逃げ出した先で何があるかも分からない。これは映画ではお約束のエンディングだが現実的とは言えないだろう。

 「籠城だな」

 二つのプランを直ぐさま浮かべ、数秒の逡巡の後に確実性の高いプランを女は持ち出した。脱出は面白いだろうが、生存できる可能性は博打だ。余程追い詰められない限りは選択するべきではないだろう。

 さて、となると成すべき事は食糧の確保と武器の調達である。籠城した所で何があるか分かった物では無いのだから。籠城する場所も選んだ方が良いだろう。今のサークル棟には人が多いから防火扉を閉めても誰かが開けてしまうかもしれない。なので、ベストな場所を探すべきだ。

 「まずは警備室だな、鍵があるだろう。アーチェリー部から弓矢でも失敬するとしようじゃないか」

 西門の警備室には外来と内部の受付があり、内部の方が窓口が広い。警備員は急いでいたのだろう、窓口は開け放されておりよじ登れば簡単に入り込むことができる状況だ。

 小柄な青年が先んじて入り込み、サークルの鍵が引っかけてある鍵棚へと向かった。板に螺旋で差し込むフックを無数に取り付けただけの保管所にはサークルの鍵が多くぶら下がっていた。その中で歯抜けになっているサークルの物は自分達と同じくして巻き込まれた人達の物であろう。

 青年は鍵をざっと見回し、洋弓部となっている鍵を選んだ。誰もがアーチェリー部と呼ぶが、大学内での正式名称は洋弓部らしい。伝統あるサークルでは古い名称を使っている事があるので、その名残だろう。

 他に使えそうな場所の鍵は無いかと思ったが、このサークル棟の部分には無かった。ただ、学友会連合や学生部会の鍵が無いのが気になる。仕切りたがりの割に仕事が杜撰な彼等が学校に残っているという事が、不確定要素を産む上に諍いの種に育つとしか思えないのだ。

 「マスターキーは無いか? 流石に扉をブチ破ると不味いぞ」

 女はすっかりテンションを上げており、学校の鍵の無断借用なんぞ気にしていないらしい。緊急避難が適用されるし責任の所在や下手人も曖昧になるだろうから問題なかろうが、青年は少し気が引けているというのに豪儀な女であった。

 本館などの学校の鍵は別の場所に保管されている。大きなキャビネットのような鍵棚で、硝子張りになっていて伺える内部には本館を初めとする大学の鍵が全て入っていた。生協などの別管轄の鍵が無いのが残念だが、それは仕方あるまい。大学とてなんだかんだで法人だ、部署が違えば管理も違う。

 鍵が掛かっていたら面倒だなと思ったが、案の定鍵は掛かっていた。警備員が持って居るのかもしれないが、外に出て死体を悉に探る気にはならなかった。流石に噛まれるリスクを負うくらいならばブチ破った方が幾分かマシだ。

 「おい、使え」

 軽く身を翻して受付を跨いだ女が、机の上に転がっていたガムテープを青年に放る。それを受け取った青年は、得心いったと言うようにガムテープを使い、静かに硝子を破って鍵棚を漁る事に成功する。

 「何処にします?」

 「そうだな……我らが法学部棟でいいだろう。屋上まで上がれば良いし、仮に全部防火扉を降ろした所で屋上のなど誰も開けようとはするまいよ」

 青年は女の意見に従って法学部棟の鍵を手に取った。正直、階段に頑丈な防火扉があって通行の阻害ができればそれで良いから場所は幾らでもあるので、法学部棟を選んだのは何となくだろう。

 その後の行動は極めて迅速であった。手分けして準備することにし、青年はエアライフル部の部室で役に立ちそうな物を集め、女はアーチェリー部の部室で弓矢を失敬してくる。二人は必要な物をかき集めてから法学部棟の前で落ち合おうと打ち合わせ、分かれた。

 日曜日の朝、大きなお友達が愛好する特撮番組が始まろうかという時刻、未だサークル棟は眠りの静寂に包まれていた。得てして大学生は朝に怠惰なものなのだ。それも非日常の後に迎えた朝であれば一入だろう。例え、外では非日常が継続しているとしても。

 青年が部室から持ち出した物は然程多くない。自分のエアライフル一式と弾丸をあるだけ。エアライフルの弾丸は掌サイズの円形の缶一つに五〇〇発入っている。これが一〇個もあれば足りない事は無いだろう。

 他にはエアをチャージする為の器具だ。プリチャージ式エアライフルへの充填はボンベに変換機を付けて行う事もできるが、よりリーズナブルに済ませる為に自転車の空気入れのような物でもチャージできるようになっているのだ。

 後は私物が詰まったリュックサックと昨日購入した水やシュラフ。ビニールシートなどのキャンプ用に残されていた品々をまとめておく。それなりの量になってしまったので何度か往復する必要があるだろう。

 さしあたり持っていった方が良いだろうエアライフルのケースと用具、キャンプ用品を担いで法学部棟まで向かったが、女の姿はまだ無かった。なので一足先に屋上まで向かい鍵を開けておいた。

 よくある学園物の漫画や小説において屋上は開放され憩いの場と化しているが、現実では危険だとして封鎖している所が殆どで、それは大学においても変わらない。

 立ち入り禁止のプレートが掛けられた黄色いプラスチックのチェーンを外し、階段を昇って失敬した鍵をねじ込むと分厚い鉄扉は静かに開いた。

 屋上は閑散としている。舞い上がってきたであろう枯葉や何処からか飛ばされてきた軽いゴミが散乱し、土や砂がうっすらと散らばっていて薄汚い。よくよく見やれば、飛び出した換気口の傍らで烏が死んでいた。普段使われず目にも付かない場所などこんな物だろう。

 とりあえず適当な所に荷物を固め置き、ある程度の掃除と屋根の確保が居るなと思った。家を出る前に見た天気予報で、ここ一週間は晴れが続くとは知っていたが、得てして長期の予報は当てにならない物だ。なので雨風を防げるためのタープなどは張った方がいいだろう。

 後は箒で適当に座る部分などの砂は払ってからシートを敷いた方がいいか、等と考えていると何やらケースを幾つも担いだ女がえっちらおっちらと階段を昇ってきた。金属部品が擦れ音やケースがぶつかる音、質量に耐えるスリングの金具が軋む音などを喧しく響かせながら屋上まで到達すると、女は一息ケースを降ろした。

 「……き、きついな。下で待っていろといっただろう……」

 「いえ、扉開けとかないと面倒かと思って。それよりなんで分けて持ってこなかったんですか」

 質量物の運搬でかかった負荷に耐えかねたのか、女の顔は真っ赤に染まって汗が滲んでいた。軽く袖で額を拭い、上がっている呼吸を整えながら青年が持ってきた荷物に入っている水のボトルを手に取る。

 「いや、怪しいだろう、もしも起き抜けてきた奴に見られたら、どうやって大荷物運んでいる説明するんだ。大会とかにしても、もっと大人数でやるだろうしな……」

 言葉の合間合間に大きな息継ぎを設け、水で口を潤しながら女は説明した。確かに怪しいが、一つ二つ運んでいるだけなら然程目立ちもしないから絡まれもするまいに。これだけ沢山背負えば話しは別だが。

 青年はとりあえず何が見つかったのだろうかとケースを見たが、ケースの蓋には鍵が掛かっていた。弓には銃刀法の制限が無いが、やはり危険物だ。盗まれて、それを事件に使われた場合は管理責任が発生するだろう。故に鍵をかけていて当たり前なのだ。

 小さいしケースに付いたナンバリング錠なんて単純で脆い作りをしている。軽く何か差し込んでやれば……と青年が考えていると、隣で何らかの機構が強引に破壊される破滅的な音が響いた。

 何事かと其方をみやると、女がスチール製の三〇cm物差し片手にこじ開けられたケースの前にしゃがんでいた。どうやらついでに拝借してきたらしい。

 「お、コンパウンドボウじゃないか。これはいいぞ」

 分解され仕舞われているのはコンパウンドボウと呼ばれる機械弓の一種だった。形状はカーボンやスチールの複合体で作られた弓なのだが、その両端には経の異なる滑車が二つ埋め込んであり、その滑車を弓弦が通るような構造をしている。

 アローレストやサイトなど、多数の近代的な改良が施され、正しく機械的な補助を以て精密な射撃を行う為に設計された現代の弓であった。

 強い弓を引くに当たって、弦を弾くのに必要な筋力や引きっぱなしにする為の膂力と持久力は相当に高い水準で要求される。中世の複合弓では四五kg程の負荷を引ききる筋力を要求され、軍人階級などは体の左右で大きく体型が異なるほどの訓練を必要とする程だ。しかし、このコンパウンドボウは構造によって必要な力を大幅に軽減している。

 弾き始めはそうでもないが、引き絞った頃には半分ほどの力で維持できるようになるのだ。余分な力を必要としないことは震えが消える事であり、震えが失せる事により狙いの精密性は増す。最も洗練された近代的な機械弓と言えるだろう。

 「ああ、これは何処かのベトナム帰還兵がヘリ叩き落とすのに使ったやつだな」

 女は愉快そうに弓を取り上げて駆動を確かめている。収納のために分解されているので組み立てる必要があるのだが、青年は門外漢なのでさっぱりであった。しかし、自信ありそうに弄っている辺り女は知識でもあるのだろうか。

 不思議に思って問うてみると、勘、という極めて単純にして明快な答えが返ってきて、その衝撃で青年はしゃがんだまま横倒しになりそうになるという器用な真似をやる羽目になった。

 「冗談だ、故障時の連絡先とかが乗っているからだろうな、マニュアルが束で置いてあったから見れば分かるだろ」

 悪戯っぽく笑ってから女は箱の影から薄いペーパーバックのマニュアルを取り出した。それもそうだろう、売りつけるだけ売りつけて使い方を教えない製品などあるまい。特にこういった専門的な物の場合は尚更と言えよう。

 「とりあえず他には矢だな。まだ使えそうな物が割とあったからもう一度行ってくる。此処を頼むぞ」

 げんなりしている青年を余所に女は立ち上がり、もう一仕事するかと肩を回した。台車が欲しい所だがなーと呟くと、そのまま階段を三段飛ばしで駆け降りていく。

 乱雑に放置された荷物を前に眉根を顰めながら、青年は準備が大変そうだと大きな溜息を付いた…………。









 広く閑散とした屋上の上で、一組の男女が縁に立ち、胸元まであるフェンスに体を預けながら眼下に広がるキャンパスを睥睨していた。

 「凄いなー」

 「そっすね」

 煙草を唇の間に挟んで保持している女の口から、何処までもやる気が無さそうな声が溢れ、傍らに立つ青年も同じく気力に著しく欠けた声を上げた。

 二人の服装は随分とラフな物へと替わっている。青年はシャツを脱いで艶やかな光を反射する科学繊維性の肌着以外にはズボンしか履いておらず、女は上半身にはワイヤーの入った黒いブラジャーだけを身につけている。

 互いにシャツは軽く洗ったのか、貯水棟とフェンスの間に張られている、本来は階段への立ち入りを禁じる黄色いチェーンに通して干していた。黒と白のシャツが風に吹かれて虚しく揺れている。

 「一週間保たなかったかー……」

 煙草から煙がくゆり、肺へと取り込まれて白さを増した主流煙が言葉と共に排出される。至近にて立つ青年は、顔の方に漂ってきた煙に目を刺激され不快そうに眉根を寄せた。

 二人が眺むるキャンパスは地獄の様相を呈していた。時節は、二人が屋上に上って籠城を決め込んだ時から五日後の事である。

 週末の昼、本来ならば学生達が明日に控えた休みをどうやって過ごすかと賑やかに行き交っているであろう場所は、ふらふらと死者が俳諧する死都と化していた。

 行き交うのは直近に控えたゴールデンウィークへの期待ではなく、意味を持たぬ呻き声や、僅かに残った死体の肉を必死にしゃぶる気味の悪い咀嚼音だ。

 この悪夢のような光景は、朝になって目が覚めたら繰り広げられていた、という訳ではない。数日の内に、沼地での傷が少しずつ腐っていくように状況は悪化していった。

 二人はあの後、更に物資を自分達が入れる場所からかき集めてきた。空のボトルに水を入れ、本館地下の自販機をこじ開けてあるだけ全ての飲料を手に入れる。そして、準備が整った後には扉を外からロックして小さな籠城が始まった。

 出入り口に貯水槽を乗せた建屋とフェンスの合間にタープを張り、その下を掃除してビニールシートを敷き寝床を整える。シュラフがあるので寝るのには十分だ。

 火は部室で鍋をやるために置いてあったガスコンロで確保し、小さいハンドサイズの鍋で湯を沸かしカップ麺を食んでこの五日間を生きてきた。

 そこから下を観察していたのだが、起こった事は極めて単純。大勢の人間が暴走した、ただそれだけだ。

 得てして人間とは単体、若しくは少数ならば理性的な行動も取れるのだが、大勢になると暴走しがちな生き物だ。それは、人間が持つ感受性という特徴に起因する。

 場の空気を読み、人が何を考えているか慮る力。これが、場の空気に感応してしまい、ちょっとした混乱を爆発的に増長させるのだ。

 最初は学友会連合や学生部会などが事態の収拾に当たっていた。メガホンで大声を上げながら学生を集め、緊急避難的にコンビニを収奪して食糧を分配し、助けを待つために一致団結しよう! などと叫んでいたのだが、現実はそんなに甘くない。

 動く死体を見て錯乱する者、どっきりだと軽んじて逃げだそうとする者。そして、自分達だけで生き残ろうとして失敗する者達が現れたりと全然協力し合う事が無かった。統制など、最初から無かったのだ。

 それが、学生だけの集まりだから悪いという訳ではあるまい。大学生など殆ど大人だ。ただ、状況とタイミングが悪かったのである。人間なんぞ、所詮こんな物だと上から俯瞰する二人はしみじみと感じ入っていた。

 それでも、何が良くなかったのかなど、素知らぬ顔で上から眺めていた二人には分からない。ただ、学友会連合の会員がメガホンで叫んだせいで死体が山ほど寄ってきて、フェンスの脆い部分が破れて雪崩れ込んできたり、食糧の奪い合いが起こったりと詳しい事を伺えないまでも破滅のステップだけは理解できていた。

 彼等にとって下の百何十人もの死は、その程度の関心事に過ぎなかったのだ。

 これが正義感溢れる者達であったならば、弓やエアライフルを片手に下へと降りて、逃げる学生達の援護をしたのだろうが、青年達は弓の扱いを覚える練習以外で一切弓を放つ事は無かった。ただ、上から映画談義をしながら彼等が喰われるのを眺めているだけだ。

 理由は極めて単純で、自分達に益が無く危険だから。それに尽きた。

 彼等を助けた所で、その後どうするのだ? という問題も残っている。故に彼等は自分達の今後の為に見捨てたのだ、同じ学舎で肩を並べた者達を。

 同じ学校というだけで知人でも何でもない人間ばかりなので助ける義理は無いと言えば無いだろうが、それでも人道的観念から到底褒められる内容ではない。その事を分かっていながらも、彼等は自分達が生き残る為に彼等を見捨て、何の良心の呵責を覚える所か恥じ入る事さえしていなかった。

 「さて、どうするか」

 殆ど根元まで達し、これ以上吸えばフィルターが焦げかねない所までチビた煙草を吹き捨てて女は呟いた。煙草は煙を立ち上らせながら風に浚われ、仰向けにして事切れていた死体の口に入り込む。全くの偶然であるが、女は煙草の行く先に興味を持っていないらしく、その偶然を目にするのは腐って白濁した眼球のみであった。

 「煙草も今のでカンバンだ」

煙草に続き、女はポケットから取り出した細長い煙草のパッケージをひねり潰し、それも吸い殻の後を追わせる。風に巻かれ、パッケージは視界の外へと消えていく。

 「水も、残り少ないですね。飲料にはジュースを優先して飲んだんですけどね。食事も殆どありませんよ」

 背後にある寂しい寝床の近くには汚物を治めたバケツと空になったペットボトルや空き缶などが散乱している。水を汲めるので雨が降った時の為に残してあるのだが、今の所役目を果たした事は無い。

 「さて、どうするか……そろそろ限界だな。私は煙草がない乾いた生活なんぞ御免被るぞ」

 「嗜好品云々はさておくとしても、ここで枯死するのは確かに私もお断り願いたいですね」

 女は、それもこれも市民団体が悪い、と足下で二日前から雑音しか流さなくなったラジオを蹴り倒した。ラジオが鈍い音を立て駆動を止める。

 彼等がこの五日間していた事は、下を観察しながらゴロゴロと静かに暇を潰しながら、空を希に進みゆくヘリコプターや航空機を見送りつつラジオに耳を傾ける事だった。ラジオに耳を傾けるのが停波した中での唯一情報を得られる機会で、それを聞きながら救助と事態の収拾を待っていたのだ。

 だが、ラジオが伝えたのは収拾ではなく、逆に彼等の救助の芽が潰えた、という事であった。

 ラジオが流す内容には、奇病が流行っており罹患者に近づかないように、という警告文などが含まれていたが極めて単調なだけのニュースが殆どだ。

 その上、ニュースの内容には市民団体が彼等は単なる病人で適切な処理を、等と叫んで自衛隊が出動できないなどの内容も含まれており、二日前には遂にラジオも止まってしまった。

 大凡、市民団体の抗議やら何やらの対応を考えている内に初動が遅れ、死体を病人として運び込んだ病院などが壊滅、次いで捕獲作業などに投入された自衛官や警察にも多大な被害が出て、気がついたら対処不能に……と言った具合の陳腐なシナリオがあったのだろう。見事なゾンビ映画のテンプレートであった。

 最早、二人を助けに来られる存在はこの世に存在し得ないわけである。

 「……どうしましょうか」

 「どうするかね」

 されど、問いながらも彼等の心積もりは決まっていた。状況が降着しているのであれば、打破するだけだと。口を開けて待っていても誰も餌をよこさないと言うのであれば、後は自分で飛び立って調達する他に道は無い。

 それができねば、巣の中で枯れるように死んでいくだけだ。

 「足、どうしますね?」

 「知ってるか、旅研の顧問が学校の駐車場に大型のキャンピングカー秘蔵してるんだ。アレ、使えるぞ」

 「……じゃあ、行きますか」

 「ああ、荷物纏めろ、私は弓を準備する。エアのチャージも任せたぞ」

 「Ja」

 「よし、状況開始だ」

 フェンスにもたれていた体が弾かれるように浮き上がり、ほぼ同時に二人は身を翻した。生に貪欲な獣が狩りの興奮に膨らませるが如く風に吹かれて髪が揺れる。知らずの内に、手元には力がこもっていた。

 ただ動く、生きるために。他の物を切り捨てながら。

 それでいて彼等は恥じる事も後悔もしない。己はそういう生き物だし、かつては人間全てがそうだった。虚飾が剥げていくだけなのだ、苛酷な環境に晒されて。

 死の危機という荒れ狂う風雨に倫理という鍍金は浚われた。後は、本能という地金を覗かせたケダモノだけが後に残る。

 迷うこと無く趨るために。

 そして、生きていくために…………。
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 そろそろ終わると言ったな? あれは嘘だ。

 すみません冗談です、ごめんなさい。プロット見直していると修正し始めて色々と伸びてしまって……。次でようよう大学からは脱出ですかね。そこから再び少女の視点に戻ります。いい加減に終わりを見せてこないといけませんね。

 そして、ちょっと紹介文章を弄ります。短編連作と言いながら、続く内容が増えすぎて当初の予定と大きく異なってきている。どうしてこうなった。

 感想や誤字指摘ありがとうございます。まだ全てに返事しきれていませんし対応もできていませんが、励みになっているし、間違いの訂正もできるので大変ありがたいです。よろしければ、これからもお付き合い下さい。