こっちは二十五日にパリを発つ予定だ。変更があれば電報を打つ。きみとはバイヨンヌで会おう。
そこからバスで山越えしてパンプローナにいこうじゃないか。

これはアーネスト・ヘミングウェイの「日はまた昇る」の一節ですけれど、
この間、空想旅行でパンプロ―ナを扱いました折も折り
ヘミングウェイのこの作品の背景に、パンプロ―ナの牛追い祭りがあると知ったものですから、
(なにしろヘミングウェイはまともに読んだことがないのでして…)
さっそく読んでみたのでありました。


日はまた昇る (新潮文庫)/アーネスト・ヘミングウェイ


ヘミングウェイと聞いて、思い浮かぶ言葉に「ロスト・ジェネレーション」というのがありますね。
日本語直訳すると「失われた世代」というわけで、

なにやら文学的な雰囲気は漂うものの実はちいともピンとこない。
これをひと捻りして「迷い子の世代」なんつうふうに言われると、少しは分かったような気がするものです。


ところで、この「ロスト・ジェネレーション」なる言葉ですけれど、
実は「日はまた昇る」冒頭のエピグラフに現れるのですよ。

「あなたたちはみんな、ロスト・ジェネレーションなのよね」  ガートルード・スタインの言葉

ここでは「ロスト・ジェネレーション」に対して「自堕落な世代」と当ててありました。
なぜこのように解すか?ということは、新潮文庫新訳版の解説に訳者・高見浩さんが
興味深い話を披露してくれていますので、そちらに譲ってしまいますけれど、
「自堕落の世代」と聞きますと、実にストンと落ちるわけです。
なにしろ、この小説の登場人物たち、のべつまくなし飲んだくれてる。
まさに「自堕落な連中」なのですから。


しかしまあ、「あなたたちはみんな…」とガートルード・スタインが言っていることからも分かりますように、「日はまた昇る」の登場人物を評しているわけではないんですね。
ヘミングウェイやその同世代の仲間うちのことを指して言っているという。


いくら文学的に私淑する先達としても、

さすがにヘミングウェイも「はいはい、その通り」と思うはずもなく、
それほど言うなら「自堕落世代」の日常を活写してやろうじゃないの!ということで、
この小説を書くきっかけの一つになったのではないですかね。


ところで、主人公のジェイクがヘミングウェイ自身のイメージで書かれたことと同時に、
ここに出てくる人たちというのは、まさにモンパルナスに寄り集まってはカフェをはしごしながら飲み騒ぐ

仲間うちだということがばればれだということで、いちばん身も蓋もない書かれ方をした人物などは、

「怒りのあまり拳銃を懐にヘミングウェイを追いかけまわしている、などという噂がまことしやかに流れたりもした」んだそうです。


こうした浮ついた日常を、それこそ上っ面で読んでしまうとそれで終わってしまう話なんですが、
ヘミングウェイが言いたかったのは、そんなことではないのでしょう。
この小説自体が、ガートルード・スタインの発言への挑戦状(?)みたいなものなのですから。


1920年代のパリ。
夜となく昼となく顔を合わせれば、「おい、飲もうぜ」と言っている仲間うちにフランス人はいません。
皆がみな異邦人。パリにしっかり根付いているわけでもなく、祖国に帰るつもりもない。

爛熟の世紀末の後に迎えた20世紀、これまでの常識を超える大戦は
若者たちにとって明るいはずの未来に暗雲を投げかける以上のものがあったようです。


喪失感、虚無感、やり場のなさ、所在なさ…そうしたものを振り払うかのようなから元気。

こうしたものが登場人物たちには通底しているように見えます。
主人公ジェイクはブレットをこよなく愛しながらも、戦争で性的不具に陥り、
優しくもよき理解者でしかありえない。
ブレットもまた、心ではジェイクを思いながら、満たされぬものを求めて恋人をとっかえひっかえ、
パンプロ―ナではマタドールに言い寄る始末。


ですが、ヘミングウェイはこうした空疎感を記すこともなければ、
騒がしさをそのまま描くこともないのですね。

ヘミングウェイと聞いて思い浮かべるもうひとつの言葉は「ハードボイルド」です。
パリでの享楽、パンプローナの喧騒、これらを抑制され乾いた文体で描いているわけです。


後に、ダシール・ハメットやレイモン・チャンドラーによって、
ハードボイルドは文体というよりも生き様といった点にフォーカスされるようになりますけれど、
ここではずいぶん異なるような気がします。


例えば、ジェイクのようすをこんなふうに描写するところがあります。

ブレットってやつはああいう女なのだ。ぼくを泣きたい思いにさせたブレットってやつは。
次の瞬間、最後に見た彼女の姿、前の道路を遠ざかっていって車に乗り込んだ彼女の姿が
脳裡に甦った。すると、もちろん、ぼくはまたみじめな気持に突き落とされた。
昼間なら、何につけ無感動(ハード・ボイルド)をきめこむのは造作もないことだ。
が、夜になると、そうはいかなかった。

どうです?
かっこわるいでしょう。いわゆる「ハードボイルドだど」とは違いますよね。


描かれているものがどうあれ、この淡々とした様は、
これまた全く予想外のものとの関連を思いつかせたのですね。
それは、小津安二郎の映画なんですけれど、我ながら少々突飛だったかなと思いつつ。


淡々としつつも、物語としては身も蓋もなさそうな雰囲気。

しかしながらそれでも「日はまた昇るんだ、誰にでもね」という

ヘミングウェイのつぶやきが聞こえてきます。

「まったくあんたたちは」と切り捨てたガートルード・スタインに対する応えとして。