筒井康隆「巨船ベラス・レトラス」
タイトルの「ベラス・レトラス」とは、ラテン語で純文学のことらしいのですよ。

本文中で語られるまでもなく、「文学は終わった」とか言われていることは

誰もが意識しているところではないかと思うわけです。

それを、真っ向勝負で論争に持ち込むばかりか、

それを小説に仕立ててしまうあたり、

筒井康隆さんの面目躍如といったところでしょうか。


とどのつまりは、「純文学ってなんなんだ?」というところなわけですけれど、

これはちょっと見方を変えると、

クラシック音楽が旧来の手法に革新性を持って新しい音楽を生み出し続けた結果、

一般大衆にはおよそついて行きがたい「前衛音楽」にたどり着いてしまったことと

似ている世界なのですね。


しかも、結果として、クラシック音楽の保守本流なはずの現代音楽が

およそ市民権を得ているとは言えない中で、

むしろ亜流のように現れたポピュラー・ミュージックこそこの世の音楽であるかのように

大手を振ってまかり通っているのは、お手軽に量産される「読み捨て小説」がベストセラーになっているのと

同様なわけです。


ただ、何が良くて、何が悪いかといった尺度を当てようとすると、議論百出になるのではないかと。

ましてや、本書で描かれたような文学に関わる人たちの中でも喧々諤々なわけですから。


まあ、そういう要素はあるにせよ、あまりめくじらを立てないようにすれば

(そのこと自体は作者の本意に反するものと思われますが…)

ずうっと前衛を試み続けている筒井康隆さんならではの、

ストーリーの揺らぎに身をゆだねることができるのですね。

登場人物たち同様に、巨船ベラス・レトラスに揺られているように。


登場人物たちと言いましたけれど、これが一筋縄ではいかない。

本書の登場人物の何人かは小説家ですけれど、

それが作中で描く小説の登場人物までが、本書の登場人物として(ひとつカテゴリーをアップして)

登場してきますし、反面、

本来この小説の書き手として黒子であり、神の視点であるべきはずの筒井さん本人までが

本書の中に登場人物として(ひと段階、カテゴリー・ダウンして)現れてくる・・・


こうした次元の異なる登場人物たちが、

実体は何もないベラス・レトラスなる船に皆していつのまにか乗船しているという虚実の混濁を

前衛といわずして何と言おうというところではありますが、

これが晦渋な文章で展開するのではなく、むしろ平易な形で進むのも食わせものなわけです。


難しくも、難しくなくも読める(読めてしまう)前衛。

もしかすると、筒井康隆さんは音楽で言うならば、

マーラーやR.シュトラウスといった爛熟した後期ロマン派に踏みとどまっているのかもしれません。