天安門の頃 | らおぱんと呼ばれて

天安門の頃

先日食事に誘われまして、数人でテーブルを囲みました。


私以外は皆こちらの30代前後の人です。


注文したものも大方食べ終わり、話題の種も出尽くしたため、残ったビールを飲みながら、言葉も少なくなった頃に私が話を振りました。


「そういえばそろそろ6・4だね、今年で20年か、、早いものだな、、」


そういうと、誰かがその頃はどこへ居たのか、日本ではどう伝えられたのか、、などと聞いてきました。


私は、
「日本のことは知らないんだ、こっちに居たからね、、。」


というと、初対面だった一人が、

「あの時からこちらに居たんですか?」と驚き、自分はまだ10歳にもなってなかったからほとんど記憶に無いとも言いました。


この場面、なんとなく映画ジョーズで鮫退治一日目の晩に船の中で酒を飲み、突然ロバート・ショウ演ずる鮫漁師クイントが、インディアナポリス号に乗っていた過去を話し出すシーンに雰囲気が似ています。



天安門の事件が起こった当日は香港にいました。しかし、その2日ほど前までは蛇口に行っていたのです。当時私が勤める会社が、そこへ工場を作ったので、私も時々仕事で行っていました。そのときは多分1週間以上行っていたと思います。香港に戻り、会社へ行ったのは午後だったので、呼び戻されたのかもしれませんが、その辺は記憶がはっきりしません。


しかし、今でもはっきりと憶えているのは、社内の異常な雰囲気です。大きな音量でラジオを掛けながら、皆仕事をしているんですよね、、。
それで時々何かの速報が入ると、仕事の手を止めて聞き入る、そんな状態を繰り返していました。


何があったのか、、と誰かに聞くと、"知らないのか?革命がおきるかもしれないんだ、、"


正直なところ何にも知らなかったのです。


当時、先ず住まいにテレビというものが無かったのと、言葉の問題がまだかなり有り、人との交流や情報の収集能力に限界がありました。そんなわけで、仕事をして日常生活をおくるだけで、肩で息してるような状態だったのです。


とりあえず、そのときにやっと北京で何が起こっているかわかりました。


やがて6月4日になり、いつものように一人で悶々とした日曜日を過ごしていました。そこへ夜になって、誰かから電話が来たのです。

女性だったのを憶えているのですが、内容は"今日大勢の香港人が中国から戻って来た、明日の月曜日は蛇口へ行くのか、会社へ行くのか"という感じの話でしたが、私は事情が良くわからないので何かあったのか?と聞くと、知らないのか?と聞かれてブツリと切られてしまいました。


翌日出社して大体のことはわかりました。


もう、ラジオの音も聞かれませんでしたが、一部の職員が新聞の切り抜きを持ち寄っているのを見たので、何をするのかと聞いたところ、北京に送ってやるんだということでした。


また、社長が消息不明ということになり、変な噂も流れました。会社は米資本の香港支社でしたが、社長は台湾で学生運動に参加し、アメリカに亡命したというとんでもない台湾系アメリカ人でした。そのため消息がつかめないのは、香港でデモに参加してるのではないか、と本社で勝手に憶測が飛んだようです。

実際は上海方面出張中に事件が起こり、交通規制で身動き取れなくなったためだと憶えています。


いずれにしろ、本社、親会社、皆騒然となったようですね、ちょうど蛇口に投資して工場を作ったばかりのことでしたから。

この先どうなるのかと、社内で英語がまともに話せるものには、やたらと電話が掛かってきたみたいです。


特に印象に残っている出来事は、事件から2日後だったか、夕方でした。


ちょうど会社から九龍湾の徳福花園に帰ってくると、セブンイレブンの前あたりでしょうか、号外を配っているんですよね。

A4ぐらいの大きさで新聞と同じように刷られているのですが、書かれている内容を見て驚きました。


鄧小平が死んだって書いてあるんですよ、、。


ご丁寧に、年代を追って若いときからの写真や経歴とかも簡単に書かれていました。

ご存知の通り、鄧小平が亡くなるのは8年後の1997年で、皮肉なことに香港の返還を待たずに逝ってしまうわけですが、そのときの号外なるものは香港人の抗議の表れだったんでしょうね。


怒り心頭なのはわかりますが、ハライセに捏造記事の号外を作ってばら撒く、というのはなんとも手が込んでいます。


そんなわけで、その後はしばらく中国へ行かなくなるのですが、実は事件から一週間後の日曜日に羅湖へ行ってみたんですよ。

何しろ毎週、日曜日は恐ろしく暇で悶々としていましたから、、。もちろん同僚には聞いてみました、大丈夫かな?って。そうしたら羅湖は問題ないだろうけど、広州へは絶対行くなっていわれましたね、まだ学生がくすぶっているようなので。


で、羅湖から入って、歩いて国貿ビルまでいって帰ってきました。特に何にも無かったですけどね、緊張して行きは馬場行きの列車に乗っちゃいましたけど。


さて、食事の終わりにそんな話をしていたら、一人がこう言いました。


「もう二度とああいうことは起こらないでしょう、今の政府はとにかく強くなりましたから」


"強い"という表現が"ようつべ"やエロサイトを遮断してしまう現実と対照的に思えました。
噴出すのを堪えてムセちゃいましたよ、、。


まあ、天安門以降、香港は8年後の返還を前に騒然となるわけですが、特に猛烈な移民ブームが加速することになります。

私にとってバラ色の時代ともなりまして、日本のパスポートを持っているだけで結構モテました。

体重も今の2/3ぐらいだったし、、。