牛頭角屋村 その4 | らおぱんと呼ばれて

牛頭角屋村 その4

思い出の屋台街お別れはしごメシは、2軒目を目指し薄暗い団地の間を歩いていました。


2軒目は駅への反対側改札口へ通ずる通り沿いに軒を並べた店と決めていましたので、当然団地の敷地内を端まで横断していくことになります。


実のところ、このおねえさんはとても早く歩く癖があり、一緒に歩いても横に並んで歩くということはまずありません。ほとんどの場合、彼女が先頭になり登山のように縦列状態で歩くことになります。香港のように人ごみの中を歩く場合が多いとこの歩き方は有利ですが、難点は会話が制限されるので意志の疎通に難があることです。


この日は二人ともカサを持っておらず、再び降るかもしれない雨を気にしてか、彼女の歩行速度はいつにも増して早足です。ノートPC一式と仕事の書類をつめたバッグを背負い、大陸からバスに乗って出てきた身の上にはとても追いつけない。おまけに先ほどの屋台でビール大瓶2本、料理の大半を平らげているのでさすがに堪えてきました。


彼女は旅行が好きでよく海外へ出かけている様なのですが、旅先の観光地でもああやって競歩のように歩き回っているのでしょうか?名所は多く回れるわけですから内容の濃い旅行にはなるのでしょうけど、、。と、そんなことすら考えてしまう私のことはまったく気にせず、振り向きもしないでずんずんと進んでいきます。


その後姿はさっさとあんたにメシ食わせて帰りたいのよ、と言わんばかりにも感じられました。さすがに手に提げた先ほどの食い残し弁当が足にまとわりつくようになりましたので、団地のエレベーターホールの入り口から入り、中の通路を通ろうと呼び止めました。


薄暗く狭い団地内の通路でも、歩く速度は衰えをみせませんでした。先ほど団地内を通ってきた私には道順がつかめましたが、先頭を突き進んでいる人にはそれが皆無だった様です。


私が曲がるべき横の通路に気がついた時には、彼女はつきあたりまで直進して道なりに曲がっていました。アッという声が通路内に響いたのは、彼女が私の視界から消えた直後でした(イッだったかもしれません)。



らおぱんと呼ばれて-通路


つきあたりを曲がった先には、狭い通路内にびっしりと小さなテーブルが並べられ、満席状態で皆さんお食事の真っ最中でした。恐らく雨でテーブルを出せない店が、通路内に席を設けたのでしょう。予期せぬ状況の展開にうろたえるおねえさん、食事中のお客さんたちは怪訝な表情でこちらを向きます。


「ここは行けないみたい、、」


そんなこと見りゃわかります、、。

事務職しか経験のない彼女には理解できない情景かもしれませんが、私がこちらの工場で働いていたときは、昼飯になるとエレベーター乗り場から階段の踊り場に至るまで、折りたたみの丸テーブルが出されて、仕出しのおかずが並べられました。たしかご飯はトイレで炊かれていたと思います。もっとも80年代後半のはなしですから、21世紀に、しかも金を払ってそういう食事をするところが存在していた、ということには私もおどろきました。


どういうわけかトイレもその通路食堂の近所にあり、前述した工場での食事を思い起こさせました。団地の共同トイレのようで、ちょうどいいので私はそこで用をたし、本来曲がるべき所へ戻って再び通路を直進。目的の屋台が軒を並べる通りへ出ることが出来ました。


ところがそこでも予期せぬ事態が待ち受けていました。先ほどの店もそうでしたが、こちらもほとんど満席状態です。通りには順番待ちの列が出来ていました。


らおぱんと呼ばれて-列


「うーん、どうしたものかね、、、」


この列に並んで二度目の晩餐を取ることが無謀だとは私にも理解できました。おそらく彼女は私の30倍ぐらいそれがわかっている様で、"いい加減にしろよ"というメッセージを盛んに気に乗せて発してきます。それにしても香港人はよく列を作りますよね、大陸の連中と違って、、。


「よし、3軒目に予定していたのを繰り上げよう、それでお開きだね。」


3軒目って、そんなこと考えていたのか、とまたしても呆れた表情をされましたが、私も3軒目の方は一人で行くつもりでした。要するに麺を最後に一杯食べようと思っていたのです。それなら頭数も要らないので。


らおぱんと呼ばれて-麺1


麺の店は席が空いていました。


さて、何麺にするか?雲呑麺か牛楠麺のどちらかになるのですが、しばし迷ったあげく、牛楠麺を頼みました。牛楠は牛の横隔膜の部分です。それを煮込んだものが麺の上にのっているのですが、私の経験では昼間はまだ煮込みが足りず味が薄め、逆に夜遅いと煮詰まってしまっていることがあるようです。おそらく時間的にはちょうど良いころと思われました。


この牛楠麺も中国で港式麺粥と書かれた店で食べることが出来ますが、横隔膜の部分が多く肉が少ない場合が多いようです。比べて香港で食べる牛楠は肉がぎっしりと詰まっていて、煮込まれたそれは牛肉の大和煮を思わせる味わいがあります。


らおぱんと呼ばれて-麺2


写真後方はおねえさんのお椀ですが、ご覧の通り撮ってるそばから箸をつけ始めました。これを見る限りではなんだかんだ言っていい食べっぷりに思えますが、とんでもない。


あの肉がてんこ盛りされたレンゲは、この写真を撮り終わったあとに、私のお椀にそのまま平行移動してきます。同じ程度の盛り具合でレンゲは3往復したでしょうか、私のお椀は肉だく特盛り状態となってしまいました。


牛楠麺を食べたあとは、タクシーが拾える通りまでおねえさんを送り、私は先ほどの弁当箱二つぶら下げて駅へ向かいました。


店が軒を並べる通りをまた通るのですが、途中思い出の場所を一つ発見しましたので写真をとりました。18年くらい前のことなので同じ店ではないかもしれませんが、確かここの辺です。秋深まった頃に、ここで火鍋を食べたことがあるのですが、やはり女性と二人で、、。まあ、今となっては単なる思い出ですけども。



らおぱんと呼ばれて-屋台8


駅のホームに着いた時には9時をだいぶ過ぎていました。


明りが灯った団地を見つめていたくて、2本ほど地下鉄を乗り過ごしていました。昔とちがい、今では地下鉄の駅にも小さなベンチが数箇所設けてあるので、始めてそのありがたさを実感した気がします。

写真のとおり、もう半分ぐらいの部屋は明りが灯っていません。


らおぱんと呼ばれて-灯火


正直なところ、内心非常にさっぱりした気持ちになりました。取り壊されることは仕方がないのですが、ある日突然壊され始めているのを目にするよりも、自分の思い出になんらかの区切りをつけるようなことが出来たと思えたからでしょう。


また、たいした店でもないのに行列まで作って食べに来る人たちの存在や、消え行く団地を熱心に写真に収めようとする人たちの姿は私の香港人観に少なからず影響を与えました。


私の感じていた香港人というのは超現実主義で無感動、そして金儲けのことになると利己主義が丸出しになるというものでした。

普通に付き合っていればいいやつで、そこまで極端な面は見えないかも知れませんが、過去に一緒に事業をやって幾度か苦い経験があります。


ですから薄汚れた団地などに対する感傷的な行為は、彼らに何の意味があるのかとも思っていました。しかし、同じように写真を撮り、屋台で食事する人たちに出会って、消え行く団地を何らかの方法で心に留めたいという共通の想いが感じられました。


特に写真を撮るのは若い人たちが多く、おそらく私がこの辺に住んでた頃は、まだ生まれてなかったような世代の若者もカメラを向けていました。もしかすると彼らは過去に私が出会い、そして裏切られたような人たちとは世代とともに、メンタリティまで変わってきているのかもしれません。


なんとなく、いろいろと変化に気がついた日でした。そんなことを考えていたら帰ってまたビールを飲みたくなってきたので、次の地下鉄に乗るべく腰を上げました。もちろん弁当箱も忘れず手に提げて。


そして地下鉄がホームに入ってきた時に、かすかな声が聞こえたような気がしました。


"人は変わっていくものなのね、、、、"


ん?ララアか、、? フッ、まさか、、、。



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