二つの意味で「文化」が破壊される | 音楽リスナーとPCユーザのための著作権パブコメ準備号

二つの意味で「文化」が破壊される


これによって、二つの意味で「文化」が破壊される。


いわゆる歴史的名機が廃棄され、入手することが困難になる。既に電気製品は単なる消費財ではない。歴史的名機である必要はない。操作性が自分の感覚にぴったりはまる電化製品もあるだろうし、ある人にとって重要な思い出の一品もあるだろう。それらも新品では代替不能な電気製品である。木工品であるストラディヴァリウスがあり、工業製品であるセルマーのマーク6があるように、電気製品であるテクニクスのmkIIがある。ある時期の文化を代表し、ある文化に多大な影響を与えた品々が、PSEマークが付いていない電気製品であるという理由だけで保存のために入手する事さえ不可能になる。誰かがPSEマークを貼れる人が、PSEマークを貼れるように改造して再び市場に現われる事もあるかもしれない。しかし再び市場に現われる電気製品は、それだけの手間をかけるに値する電器製品であり、その価値を処分する所有者が知り、しかもそれだけの手間をかけるに値するヴィンテージ品である事を理解している人の手に渡ったものに限られる。価値に気付かないまま市場に出て、「掘り出し物」として鑑識眼のある人に救われることはなくなるのだ。
歴史的資料の保存のために、あるいは研究のために、PSEマークを付けるために改造を施した製品が売られているのを探すというのはあまりに無意味だ。エフェクターやシンセサイザーを想定すれば分かるように、こうした“名機”の多くは代替不能であるために生産が止まってもなお人から人へ渡り、今も現役であり、新たな芸術・文化の創出のために貢献している。ストラディヴァリのニスやアメセルの地金のように、今となっては再現できないモノは、いくらでもあるのだ。
失われた機能というものもある。電化製品の多くは、しばしば互換性の問題を抱えている。野心的な機能は、一部のユーザの圧倒的な支持を受けつつも、しばしば後継されない。それはOSのバージョンのようなものもあれば、端子の形状のような機械的・物理的な制約もある。たとえば、βのビデオテープは、β対応のビデオデッキが製造されていない現在、中古・リサイクルでデッキを手に入れなければ再生する事ができない。その映像がどれほど貴重なものであっても、デッキの入手が不可能となる以上、今後ダビングして救い出す事は不可能になる。市場が存在しないという事は、それにまつわる品物も同時に失われていくということなのだ。ライカの写真引き伸し機は、日本ではもうすぐゴミになる。その時に、せめてレンズを救い出してくれるだろうか?
歴史的な意義。自分にとって特別なもの。失われた機能。新たな文化/芸術の創造。そのすべてが失われる。

もう一つ。文化とは特別なものではない。柳宗悦やアラン・コルバンの名を挙げるまでもなく。日常にあるものが文化であり、この100年ほどの間にわれわれの日常には電気製品がすごい勢いで進入してきた。茶箪笥や卓袱台や織物が文化であるのと同じように、電子レンジや冷蔵庫は文化である。扉付のテレビや銀色に輝くトースターやピースマーク型のライトや無機的で安っぽいモノトーンの炊飯器を思い描けば、そうしたただの電気製品が、ある時代・ある階層の日本の文化のアイコンである事がわかるだろう。ありふれていたからこそ、特別に保存されることはないが、どこかに残っている。ある程度の時代が経てば、希少性が生まれ、歴史的意義に気づき、あるいは新たな視点で再評価される。たとえば大正レトロかもしれないし昭和モダンと呼ばれるようなものとして。そういう文化をストックするのが中古店/リサイクル店でもある。そのストックもまた、ゴミとなる。ヴィンテージのような価値がついていないからこそ、間違いなくゴミになる。われわれの日常が、生活文化が、失われる。

つまり、この法改正が導くのは、電気の発明から今日に至るまでの電気製品の根絶であり、電気製品と共に歩んだ百数十年間の文化の殲滅である。