ツゥラトゥストラはかく語りき
前にも書いたと思うけれど、ウィーンを飛び立った飛行機から見た、謎のオレンジ色の光。
これを見た時の胸騒ぎみたいなものはいまでも忘れられない。
あまりにも巨大すぎて、あまりにも橙色すぎた。
他の地上のものに比べて大きすぎるから建造物ではありえないし、小さな光の集合とは絶対に違う。ひとつのものすごい大きな光。
油田のようなものが燃えているか(爆発しているのか、絶えず火がついているのか、それはわからないけれど)山の噴火か、戦争が起こってしまっているんだ、と本気で思った。
万博にあるみたいな大きなテントと思えないか?
いや、やっぱりどんな風に考えても大きすぎる。
じゃあ何か…?
もう、私の中の常識にないものとしか思えなかった。
他の乗客が騒ぎ出さないのが不思議なくらいだった。
だからこれがお月さまだとわかったとき、本当に心の底から呆然とした。
どうしてわからなかったんだろう。
低いところにあったにせよ。
地面に近くてあまりに赤かったにせよ。
月が地面から出てくるところを見たことがなかったにせよ。
地面と空との境目がわからなかったにせよ。
水平線はいつも目線の高さにある、という思い込みをしていたにせよ。
月なんて何千回も眺めているのに。
お月さまだよ、って教わらなくて初めて月を見た動物みたい。
『2001年宇宙の旅』の、お猿みたいだったかもしれない。
シュトラウス流れちゃった。
★ ★ ★
この時の感動と驚きを私は後にザールブリュッケンで友達になったドイツのひとに伝えようとした。
「How are you?」と訊かれて「How are you?」と問い返してしまうくらい英語ができないくせに、このオレンジ色の光が見えたときからの推移をずっと説明しようとしたのだった。
とっても無謀なのはわかっていたけれど、スイスからザールブリュッケンまでの車の旅は長いから何とかその間には伝わるだろう。
それにこのひとにはずいぶんお世話になって、なのにちゃんとお話をすることすら叶わなくて…だからそうだ、あの話をしてみよう。きっとこのひとなら私の驚愕を面白がってくれる、と思って。
結果は…
わたし「私がオーストリアから飛行機に乗ったときの話なんだけどね…~~略~~…でね、私はそれが大きな何かのイベントか、それとも戦争かと思ったの。そしたら違ったの!」
ドイツ「ああきっとそれ、大きな建物だったんだよ」
わたし「ううん、私もそうかと思ったの。でもあまりに大きいんだよ!よおく考えた後に、わかったんだけどね、それ、月だったの!私はあんな足下から月が昇ってくると思わなくてまさか月とは思わなかったんだけどね、それ月だったんだよ!」
ドイツ「たぶんそれ、建物の光の集合だったんじゃない?」
わたし「違うの。月だったんだってば!月だって気づいたの!」
ドイツ「ヨーロッパ内を飛ぶ飛行機はわりと低いところを飛ぶんだよ。だから、建物が思ったよりも大きく見えたんだね」
…
…
…全然通じてない。
10分くらい、つっかえつっかえずっとこの話をしていて感動の結末になるはずだったのに。
あの感動を、是非とも伝えたかったのに。
まったく、まるで通じてない。
もうお手上げだった。
もうすっかり、濡れてぺしゃんこの情けない毛並みになったモルモットのごとく、私は言うべきことが見つからなくなってしまった。
結局もうひとりの子を叩き起こし通訳してもらう。
やっとわかったドイツの友達は、「ああそうだったか、さっきの建物のことは忘れてね」というようなことを言っていたけれど、私の興奮はどうしてくれる。
どうやら感動はわかちあえなかったみたいだ。
そりゃあ、我ながらチャレンジャーだとは思ったしそう簡単に伝わるとは思わなかったけれど。
今思い出しても、深いため息をつかずにはおれない。
★ ★ ★
でもあれが単なる月の出だということをわかった今でも
やっぱりあの時のどきどきを忘れることはできないし、
もう一度同じ光景をみたとしてもやはり、
心臓がぐいぐい胸骨を押すくらいに、
どきどきすると思う。
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