ハーバード、ケンブリッジ、どこの大学教授も、学者なら一生に一度は掲載されたいとあこがれるかの科学雑誌『ネイチャー』に51回も載ったすごい日本人がかつていたことをご存じだろうか。


世田谷徒然日記

(南方熊楠)

その男の名前を、南方熊楠(みなかた くまぐす)と呼ぶ。


彼の魅力は、なんと言っても、その生涯を在野で過ごしたことであろう。彼の専門分野はいわゆる隠花植物であったが、その射程範囲は広大で、博識ゆえに「歩く百科事典」と揶揄されていた。


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彼が、初めて『ネイチャー』に論文「極東の星座」を寄稿したのが、いまから120年も大昔の1893年のことである。以降、通算51本もの論文を『ネイチャー』に寄稿している。


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若くして米国留学を経験し、英国大英博物館(東洋図書目録編纂係)に勤務していた経歴もあり、卓抜な知識と独創的な思考によって、日本の民俗、伝説、宗教を、広範な世界の事例と比較して論じ、当時としては早い段階での比較人類文化学を展開した。


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先日、たまたまIMFに立ち寄る機会に、合間の時間に、日比谷図書館でカフェを飲んだおりに、たまたまそこに展示してあったのが、南方熊楠のノウトであった。その迫力に圧倒された。



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説明文によると、彼は、奇行が多かったことで知られる。異常な癇癪持ちであり、一度怒り出すと手がつけられないほど凶暴になるとのことであったが、その一方、子供時代から、常軌を逸した読書家で、蔵書家の家で100冊を超える本を見せてもらい、それを家に帰って記憶から書写する卓抜した能力をもっていたらしい。



彼が渡米前に歌った都々逸がなかなか好い。


「僕もこれから勉強をつんで、洋行すましたそのあとは、降るアメリカをあとに見て、晴るる日の本立ち帰り、一大事業をなしたのち、天下の男といわれたい


彼が今日の日本を見たらなんと、言っただろうか?



【南方熊楠】・・・公開情報より抜粋

博物学者、民俗学者、細菌学者、天文学者、人類学者、考古学者、生物学者、その他。別名「歩く百科事典」。坂本龍馬や西郷、新選組が活躍し、翌年からは明治という1867年、熊楠は和歌山市の金物商の家に生まれた。6人兄妹の次男。子どもの頃から好奇心が旺盛で、植物採集に熱中するあまり山中で数日行方不明になり、人々は天狗にさらわれたと噂し、「天狗ちゃん」と彼を呼んだ。7歳の頃から国語辞典や図鑑の解説を書き写し始めた。1879年(12歳)、中学に入学。知識欲はさらに増大し、町内の蔵書家を訪ねては百科事典『和漢三才図会』(全105冊)を見せてもらった。まだコピー機などない時代であり、熊楠は内容を記憶して家で筆写し、5年がかりで105冊を図入りで写本した(ド根性!彼は植物図鑑25巻や名所図絵等も同様に写している)。1884年(17歳)、熊楠は大学予備門(現・東大)に入学。同期に夏目漱石、正岡子規、クラスには幸田露伴がいた(すごい時代)。ところが地方から出てきた熊楠は、上野の国立博物館や動物園、植物園で「百科事典で見たものがいっぱい!」と鼻血が出るほど興奮し、大学そっちのけで通いつめた。さらに、米国で植物学者がキノコ・粘菌などの「菌類」を6千点採集したというニュースを聞くと、がぜん対抗意識を燃やし「自分が記録を塗り替えてやる」。そんな有様なので当然学業の成績は急降下。翌年に落第したので“ちょうど良い機会”と自主退学し、田舎の親を仰天させる。1929年(62歳)、昭和天皇が田辺湾沖合いの神島(かしま)に訪問した際、熊楠は粘菌や海中生物についての御前講義を行ない、最後に粘菌標本を天皇に献上した。戦前の天皇は神であったから、献上物は桐の箱など最高級のものに納められるのが常識だったが、なんと熊楠はキャラメルの空箱に入れて献上した。「アッ」現場にいた者は全員が固まったが、この場はそのまま無事に収まった。側近は「かねてから熊楠は奇人・変人と聞いていたので覚悟はしていた」とのこと。後年、熊楠が他界した時、昭和天皇は「あのキャラメル箱のインパクトは忘れられない」と語ったという。1962年、昭和天皇は33年ぶりに和歌山を訪れ、神島を見てこう詠んだ「雨にけふる神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」。


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【柳田国男の南方熊楠への評価】


「南方熊楠は日本人の可能性の極限だ」

江戸時代に生まれ昭和に死んだ熊楠。なんという破天荒な人生、天衣無縫さ。あまりにカッコよすぎる。記憶力も驚異的だけど、熊楠は気が遠くなるほど膨大な量の書籍を写本し、自分の足で世界各地の山野に分け入り標本を集めた『努力の人』だ。熊楠の口癖は「読むことは写すこと。読むだけでは忘れても、写せば忘れぬ」だったという。熊楠は何かに興味を覚えると、それに関連する全ての学問を知らなければ気が済まないという、底なしの好奇心と爆発的な行動エネルギーの持ち主だった。『ネイチャー』に論文が載るのは研究者の夢。科学者なら一生に一度は掲載されたい。東大、ハーバード、ケンブリッジ、どこの大学教授も、研究チームも“いつかはネイチャーに”というのが悲願。それを熊楠は51回!しかも最初に掲載されたのが天文学に関するもので、彼の十八番の粘菌関係じゃないので2度ビックリ。学歴もなく、どの研究所にも属さず、特定の師もおらず、ただの民間の一研究者。何もかもが独学で肩書きナシ。国家の支援も全く受けずに、これほど偉大な業績を残した人間が実在した。「肩書きがなくては己れが何なのかもわからんような阿呆共の仲間になることはない」(南方熊楠)


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(粘菌標本を天皇にこのキャラメルの空箱に入れて献上した)