今回の震災でふと思った。


現代資本主義システムの抱えている宿痾のごとき究極の弱点は、「冗長性(redundancy)の欠落」と「最適性の欠落」の2点にあると。簡単に言えば、「適度な無駄」と「ほどほど」が必要なのである。


昔の人は好い事を言った。「いい加減」という言葉である。


これは、決して無責任でずぼらという意味ではなく、「過ぎたるは及ばざるがごとし」という過去の先哲の教訓が凝縮された哲学なのである。


資本主義は、個人も企業も最大効用を追求するあまりに、本来人間社会の営みに伴う冗長性(redundancy)をギリギリまで削減し、薄皮一枚のギリギリの危うい線で効率の最大化を目指し、かろうじてこの世を謳歌してきた、実にうつろな存在であることが、今回の地震で明らかになった。古今東西、先哲の知恵で本来残すべき「遊び」「無駄」「徳俵」が不在なのである。


至近な例が、今回だれしもが大同小異経験したであろうコンビニで瞬時にパンやカップめんやトイレットペーパーが我々の視界から消えた珍現象である。実は、流通のイロハを少しでも知っている人間には理解できる仕組みなのであるが、これはPOSシステムによる現象である。コストを最小化し、利益を極大化させるためには、在庫を限りなくゼロにすることが原理である。しかし、ジャストインタイムの究極の効率追求の功罪は、今回のような想定外のショックに脆弱である点である。また、数年前の数秒を争うがために起きてしまった列車事故も同根である。その弱点が、罪もなき市民や、被災地の無抵抗の人々を襲っているのである。こうした結果が、結局、甚大なコストとリスクを結果する。そうしたコストとリスクを合算した人類全体の損益計算書が大赤字であることは自明である。決して、人類全体にとって最善ではないのである。


その原因は、現在の我々が依拠している社会システムの設計にある。


自動車のハンドルにも「遊び」があるように、流通や原発システムにも、「遊び」が必要である。発電機を1つだけ、20mもの高台に設置するという平時では非常識なことも発想する余裕が必要なのである。現代の我々人類社会経済システムはあまりに「余裕」がなさすぎる。ギリギリにまで追求したガラス細工のような高度なシステムはかえって脆弱で、いざとなったら、使い物にならないのである。


また、あまりに、近代経済学が、あくまで議論のための仮定として使ってきた「利益最大化」「効用の極大化」という概念が、実に愚かなことに、そのまま、現実社会でも独り歩きしてしまい。「いい加減」という言葉をさす「ほどほど」を意味する「最適性」を無視し、本来であれば安定均衡してしかるべき最適点を通過した後も、とどまることなく「極大化」を追求してしまう「業」のような思想が、世の経営者を支配し、企業や個々人の日々の行動にもはびこって常態化してしまった。


結局、人間不在の過当競争、異常なほどのコマーシャリズムとそれにあおられた大衆の狂気に近い大量消費、それに対応する大量生産、その帰結としての大量廃棄という、実に愚かな行動連鎖を、だれしもが無意識に、かつ、無批判に日常化するようになってしまった。


その結果、周知の通り、単なる資源枯渇問題を超えて、公害問題が人々の健康を蝕み、気候変動問題が、罪もない脆弱な途上国の人々の生活を脅かし、あげくは南の島嶼国の水没さえ結果しようとしているのである。人類の刹那的な欲望追求のあげくが、結果的に、自分たちの首をしめつつあるのである。これを愚行と言わずしてなんと言えようか。


悲しいことに、本来人を幸せにする手段であったはずの仕組みが、だんだん「人と自然に優しくない仕組み」「人間を不幸にするシステム」に変容してきてしまったのである。

おそらく、今回、東京でも多くの店が臨時閉店し、節電する生活の中で、だれしもが、「妙な穏やかさ」にふと気付いたことがあったかと思う。それは、もちろんこういった非常事態は不便な生活ではあるが、「この程度の不便さが本来かもしれない」「今までの生活は行きすぎていたな」とささやかな気づきを感じられた方々も結構おられたのではなかろうか。


ここに、実は、「冗長性(redundancy)」と「最適性」の復活のチャンス、大事な、「いい加減」な世界への回帰、換言すれば、もっとまっとうな生き方のヒントがあるのではと思う。


やや大げさかもしれないが、今日に至る人類の社会経済システムの大きなパラダイムシフトの大事なヒントが、この「気づき」にあるのではないかと思う。


いまからでも遅くはない、我々が、この1000年に一度という試練を乗り越えながら、いかに、この「気づき」を時代のパラダイムシフトに具現してゆけるかがカギである。


東北関東大震災が我々に投げか課題はあまりに重く深いのである。