鹿児島の心理セラピスト☆ 西村佐和子 ☆

結婚を機に大阪から鹿児島に移って二十数年。鹿児島市紫原 “創作スイーツ フロマージュクリュ“のシェフパティシエの夫と三人の子どもたちとの生活の中で感じた事や思い。
また、心理を学ぶことで知りえた様々な人の心のお話などを綴っています。

鹿児島市紫原にある
創作スイーツ フロマージュクリュ
お店のブログは、こちら↓
http://fromagecru.chesuto.jp/

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その1

その2

の続きです。

 

それから私は、しばらくはぐずぐずとしていましたが

仕事を辞めることもなく、

日常生活へと戻っていっていました。

 

が、

これは表向きだけのことでした。

 

父を亡くした喪失感が

尋常ではなかったのです。

 

よく、

心に穴がぽっかり空いたような

という表現を聞いてはいましたが、

まさにその通り

風がすーすーと通ってゆくような感覚でした。

自分がいないかのような感覚

 

それに追い打ちをかけたのが、

いわゆる相続問題でした。

4人のきょうだいの中で妹だけ

父の希望通りにはしたくないと言い出したのです。

 

それぞれ遠方に住んでいることや、

諸事情から、はじめから弁護士を使って

決着をつけたのですが、一年以上かかり

それは、とてもつらい時間で

本当に苦しく、私の心の中にあった

恨みと、妬み、そして、

憎しみを燃え上がらせるものでした

 

渦中にいるときには、ある種のパニック状態で

感じられませんでしたが、

改めて振り返ると普段は隠している

自分自身の冷酷さや醜さが

表出してきた時間でもありました。

 

その時間は、大好きだったはずの父に対しても、

恨みや憎しみを感じ、

また、父から裏切られたような感覚にも陥りました。

「どうしてちゃんとしておいてくれなかったの!」

「なんであの子にばっかり!」

「なんでよ!」

「私は遠いところで、ひとりでこんなに頑張ってきたのに!」

 

もう、腹が立って、恨んで、

悲しくて、仕方がありませんでした。

 

でもその思いをどうしたらよいのかもわからず、

そのまま放置していました。

そう、私は、そのあたりのネガティブな感情を

どう取り扱ってよいのか全く知らずにその年齢まで

過ごしていたのです。

 

それは、カウンセリングを受けて初めて分かったのです。

 

感情ネグレクトでした。

 

悲しい

苦しい

辛い

痛い

などの気持ちを表現することを子どものころから

ずっと禁じられてきたのです。

 

私は、それを表現してはいけない、

そんなことを、表現することは、

それらの言葉を聞かされた人の顔に

汚物を塗り付けているようなものだと手ぶりを交えて

いわれて育ちました。

 

もちろん私は何の疑いもなくそれを信じ、

なるべく自分の口から発しないように努めてきました。

人として当たり前のことだと信じていたからです。

母もそれは同じでした。

母もまたそういわれて育っていました。

 

でも、その教えを守ってきたことで、

私の悲しい気持ちや辛い気持ち、

恐怖などなどは、行き場もなく、

私の中に取り残されたままになっていました

 

その取り残されたままになっていた、

私のどろどろとした感情は、父を失ったことをきっかけに

溢れはじめたようでした。

もちろん無意識のうちにです

 

父が他界したことで

今まで私が気が付かないままに

当たり前のように信じてきたことが

実は私の生き辛さの原因となっていたことに

ようやく気が付き始めたのです。

 

でも、人の脳というのは、

それまでの習慣が、たとえその人にとって

不都合なものでも、できるだけ変えないようにする

癖のようなものがあるそうで、

そのお陰で私はとっても苦しいのに、

その苦しい生き方を自ら選んでいるということを

突きつけられることになるのです。

 

この気づきを得たのは、

ここ数年の間のことで

これについては、

また書いていきますね。

 

親は子どもの幸せを心の底から願っているものですが

子どももまた、親の笑顔が見たいために、

どんなに幼くても、その時の知恵や体力を使って

できる限りの努力をしているものなのだなと

嫌でも気づかされます。

 

「親について」はこれで終わりますね。

 

 

 

 

 

 

 

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前回の続き

 

結局父は、夜明け前に息を引き取りました。

父の呼吸が止まった時

私は呆然となりました。

 

白く包まれたように見えた病室の扉が開き

看護師さんが立っていました。

そっと父に近づき容体を確認し、

次に部屋に戻ってこられるまでの間

私はしばらく父にしがみついて泣きました。

 

悲しくて、悲しくて、もうどうすればよいのかわかりませんでした。

「どうして死んでしまったの?一緒に連れて行ってー!」

と心の中で叫んでいたように思います。

 

夜が明けて、母や弟たちがそろったところで

ドクターからお話がありました。

父とは患者と医者という立場を超えて、

良い友人で、とても尊敬している、

またお会いしましょうと約束している

と話してくださいました。

 

葬儀社の人たちが父を迎えに来てくれた時にも、

ドクターも看護師たちも病室から、

病院の一階の出口のところまで一緒に出てくれて

深く頭を下げて見送ってくれました。

 

葬儀を終え、役所の手続きなどを終えて

ようやく鹿児島に戻った私は、

翌日からすぐ仕事に復帰しました。

もうしばらく休んでもよいといわれましたが、

そのまま自宅に引きこもって動けなくなって

しまいそうだったのと

施設管理者だという自覚はあり

仕事をしなくてはならないという

使命感のようなものもありました。

 

 ですが、今から思えば心が悲鳴を上げていたようです。

 

ふっとした事で無意識のうちに

涙が溢れることが多くなりました。

 

例えば、仕事で音楽を選ぶときに友人が進めてくれたCDを

利用者さん(お年寄りさんたち)と一緒に鑑賞していた時に

急に涙が溢れだし、慌てて事務所に駆け込んだり。

 

通勤途中にある葬儀場の前を通り過ぎたと同時に

涙が溢れだし、前が見えなくなり慌てて車を止めたり。

 

通勤途中のいつもの道でハンドル操作を誤り

ブロックに激突して車を大きくへこませたり。

 

タクシーに乗っていて何気なく外を眺めていると

自転車に乗ったおじいさんが見えて、

涙が出てきたり。。。

 

そんな私の様子を見て、

前回登場した保育園の園長らに

カウンセリングを進められました。

このままだと私がどうにかなってしまうと感じたようでした。

 

私自身はその自覚がなく、

普通にできているつもりではありましたが、

悲しみが消えているという感覚はありませんでした。

 

正直なところ、少しのためらいはありましたが、

カウンセラーは、いつも施設に仕事で来てくれている人で

顔なじみで信頼関係もできていたので、受けることにしました。

 

カウンセリングが始まってすぐに

「佐和子さんは今どうしたいですか?」と聞いてくれました。

私は即座に「泣きたいです。」と、

答え終わると同時に涙が溢れ出てきました。

 

 その頃は、自宅でも、夜にこらえきれずに涙を流すこともあり、

泣いている私の姿を見て子どもが夫に

「ママどうしたの?」と。

夫は「おじいちゃんのこと思い出して泣いてるの。」と

答えてくれていたのを今でも記憶しています。

 

 長くなったので

その3へ続く

 

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こんにちは。

 

数か月ぶりのブログ更新でごぜいます。

 

今年の夏、鹿児島は、

もう溶けてしまうのではないかしら

と思うくらいの酷暑暑っでした。

 

9月も二週目に入り、

朝夕が少し過ごしやすくはなってきましたが、

日中は、まだまだ秋ファッションを楽しむことなんて

できないくらい暑いです。

 

さて、ふっと思ったので書いてみます。

 

私たちは日常生活を普通に送っているわけですが、

 

毎日のあたりまえの「普通」の生活が、いかにありがたいものか

思い知らされることがあります。

 

昨日までの普通が今日からはそうでなくなること。

私の父は8年前に他界しました。

 

がんと診断されてから、仕事を辞めて、

治療に専念し、体調の良い時に

母と海外旅行に行ったりもしていましたが、

結局70歳で亡くなりました。

 

父ががんと診断されて治療をしている頃の私は

高齢者通所介護施設の施設長の話をいただいていて

その仕事を受けることになっていました。

 

そこは、高齢者の施設だけではなく、認可保育所、

そして、子どもの通所療育施設も併設されており、

それまでの私たちの活動

(これについてはまた機会があるときに書きます。NPO法人を運営しています。)

を評価してくれた法人からの依頼で

保育園と高齢者の通所介護施設の運営を

すべて任される形でのスタートでした。

 

赤ちゃんから高齢者まで

障がいのある人もない人もそこに集って

日中を過ごす場所の運営を任されたのです。

 

本来なら、とてもありがたいお話でしたが、

内心は、複雑で、

どうして自分の父のお世話ができないのに、

ここで全く知らない人のお世話をしなくてはならないの?

という思いでとっても苦しかったのを覚えています。

 

もちろん、併設の保育園園長にも話をしました。

園長とは長い付き合いで、

私の父に対する思いも理解してくれていましたので、

私の気持ちもきちんと受け止めてくれました。

 

建物を建築する前から私たちなりに一生懸命に準備をし

保育園のスタート、そして、あっという間に

高齢者通所介護施設も始まり、毎日仕事に追われる日々でした。

そして、10月のある日、父が入院していたホスピスから連絡が来ました。

危篤状態でした。

取るものも取りあえず大阪の病院に駆けつけるとき、

鹿児島空港まで送ってくれたのも園長でした。

伊丹行きの最終便に滑り込み、父の病院にタクシーを走らせました。

ベッドに横たわった父は、呼吸はしていましたが既に意識はありませんでした。

 

私は父にしがみついて泣きに泣きました。

目の前で命の灯が消えかけている現実を受け入れたくない。

そして何よりも父を失う恐怖と悲しみに包まれ、

悲しくて怖くて涙が止まりませんでした。

 

それでも、まだ暖かい父に触れることができたこと

「間に合った。父は、私が来るのを待っていてくれたのだ。」という

安堵感と満足感のようなものもありました。

 

ちょっと長くなったので

続きは次へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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