森林からのニッポン再生
http://homepage2.nifty.com/tankenka/chosaku-moripon.htm より
浮世絵「東海道五十三次」を見たことがあるだろうか。
いわずとしれた、江戸時代後期の絵師・安藤広重が描いた、江戸と京都を結ぶ五三の宿場を中心とした風景画である。何かと人気の作品だが、この五三枚の絵をよく眺めると、江戸時代の意外な側面が浮かび上がる。それは江戸時代の自然環境だ。
もし見る機会があれば(今ならインターネットなどで簡単に見ることができる)、とくに背景の山に目を向けてほしい。
現在、日本のどこの山を見ても、まず目に飛び込んでくるのは、緑だろう。森林が山を覆っているからだ。山と森が同義語にもなっている。ところが、この浮世絵に描かれている山は、大半が禿山なのである。たまに木が描かれていても、たいていマツの木だ。マツは、痩せた土地に生える木であり、その土壌が貧栄養になっている証拠である。しかも周辺には石が露出して、いかにも荒れた様子だ。お世辞にも「自然豊かな江戸時代の風景」とは表現できない。
安藤広重は、何か意図を持って禿山を描いたのだろうか。いや、そんなわけはない。なぜなら東海道だけの特殊事情ではないからだ。
当時の日本は、全国各地、人里に近い山は、ほとんどこうした状態だったのである。広重だけでなく、当時描かれた様々な絵巻物や屏風絵を見ると、見るも無残な森の姿が浮かび上がる。たとえばブナの原生林が世界自然遺産に指定された白神山地も、弘前の絵師、平尾魯仙が描いた画を見ると、実は広範囲に禿山が広がっていたことがわかる。比叡山も禿山で、京の町のど真ん中から山頂の延暦寺の伽藍が見えていた事実が、各種の屏風絵から浮かび上がるだろう。
絵画では信用できないと思われるなら、明治時代、いや昭和初期でもよいから、風景写真を探して見るとよい。太平洋戦争直後に米軍が撮影した空中写真でもよいだろう。これまた見事に禿山が目につく。岩だらけ、せいぜい草地が写っているだけである。
たとえば地球環境をテーマにした愛知万博の開催地として、当初予定されていた海上の森は、現在豊かな雑木林が広がっている。そのため激しい反対運動が展開されて、最終的には二つの会場に分けて開催することに変更されたのだが、新たな会場はもちろん、変更された海上の森も、明治の頃の写真を見れば、岩がむき出しで、木々が薄く点在するような禿山である。
それに比べると、いかに現代の日本は豊かな緑に覆われていることか。禿山など、よほど探さないと目に入らない。
足尾の銅山跡は長らく鉱毒のために草木が生えなかったが、今では緑化に成功している。むしろかつてのグランドキャニオンのような風景を懐かしむ人さえいる。
滋賀県南部の田上山地は、尾根筋に露出した岩々の景観を「湖南アルプス」と称し、ハイカーたちには人気のコースになっている。だが、そのむき出しの岩は、かつての禿山時代の名残である。
統計の数字を見ても、現代の日本は、有史以来の森林が豊かな時代を迎えている。その森林面積は約二五〇〇万ヘクタール。森林率(国土に占める森林面積の割合)は六七%、これほどの高率の国は、世界的にも珍しい。
ところが一八九一年の森林面積は、約一七〇〇万ヘクタールだったそうだ。これを現在の国土面積で計算してみると、森林率は約四五%にすぎない。明治時代は、現在よりもずっと緑が少なかったのだ。そしてこの数字は、多少の上下はあってもそのまま推移して、太平洋戦争直後もそんなに変わらなかったようだ。ところが、戦後の数十年間で森林率は二〇%以上、面積にして八〇〇万ヘクタールも森林が増えたのだ。世界でもまれに見る増加速度だといえるだろう。
しかし、大半の日本人は、今こそ緑が失われている、開発が進んで緑が破壊されていると嘆く。かつて存在した立派な森林が、次々と伐採されたと思い込んでいる。
私自身も、妙な経験をしている。ある自治体が「緑の基本計画」をつくることになり、私も委員になったのだが、選ばれた委員が口々に語ったのは、「緑は大切です」という枕詞の次に続く「どんどん緑が減っている。植林を進めなければ」だった。
私は、この意見を聞きながら、窓の外を見た。そこには、まさに緑に覆われた山が間近に迫っていた。果たして、どこの緑が減っているのか?
この町の緑の被覆率は、昔(三〇年程度前)から比べて、随分高くなっていることを私は事前に確認していた。街中の緑が局所的に消えるところはあっても、全体として森林を始めとする緑は増えている。それなのに…。
多くの日本人は、緑は減っていると感じている。その原因の多くは、マスコミ情報にあるようだ。森林を切り開いてダムを建設したとかゴルフ場が作られるとニュースになりやすい。さらに熱帯雨林の伐採とか沙漠化の進行など海外の情報も重なる。それに加えて、身近な市街地の緑地が宅地造成で切り開かれたのを見た、というような体験から「日本の森林は危機」と思いこんでしまうようである。
(中略)
何万年も前の日本列島の森林率は、どの程度だったのかはっきりわからない。全土が森林に覆われていた可能性もある。だが、少なくても日本列島に人が住み始め、社会を作り出した縄文時代は、そんなに高くはなかったようだ。
もちろん詳しい数字は出せないが、縄文時代の地層を調査したところ、土壌成分や花粉分析から、かなりの面積がササとかススキなどイネ科植物に覆われていたとする研究がある。どうやら有史前の列島には広大な草原が広がっていたらしい。必ずしも森林ばかりが覆っていたわけではないのだ。その理由ははっきりわからないが、気候が今のように湿潤温暖ではなかったのかもしれない。
加えて、縄文時代の植生を調べる中で、焼き畑の存在が確認され、当時の推定人口から森林面積の一割以上が二次林であったと考えられている。つまり幾度も伐採が繰り返された土地である。すでに人間の活動が、森林環境にも影響を及ぼしていたのだ。
有史前のことはさておき、日本人が歴史を刻みだしてからはどうだろう。いつ頃から森林は減り始めたのか。ブルドーザーのような機械力が導入され、各地に工業団地やニュータウンが建設され始めた現代に入ってからだろうか。
どうもそうではなかったようだ。それどころか江戸時代には、全国各地に禿山が広がり、森林受難の時代だったことは、安藤広重の浮世絵などで確認した通りだ。
禿山が増えた理由は、まず人間が集中して暮らし始めたことがある。つまり町が形成され始めたことが大きい。多くの人が住むためには、住居も建てられるし、日常的な煮炊きや暖房などにも木材は求められる。さらに政治権力の肥大化によって、宮殿や神社仏閣など建物を建設するための木材も求められた。輸送のことを考えれば、当然なるべく近い山から採取することになるだろう。大木は建築材に、そして幼木・小径木は薪に使われることで、木々の生長は追いつかず枯渇する。
つまり、大和朝廷が成立して、大規模な集落、つまり都が建設された時から森林破壊は広がっていったのだ。とくに目立ち始めるのは、飛鳥時代以降である。
さらに都市部周辺だけではない。日本史の大半は、農地開拓の歴史といってもよいが、それは森林を伐採して農地を開拓する過程でもある。また農地は、作物を収穫すると地力が衰えるため、外から肥料を入れないと持続できない。そこで山の落葉や下草のほか、枝葉を刈り取った緑肥を農地に入れた。それは必然的に山の栄養分を奪った。
また製塩とか製陶、製鉄などが産業として広がるにつれて、そのエネルギー源としても森林資源は酷使され続ける。山に木がなくなれば、降雨などで土壌が流され、土地が痩せる。すると生えられる木は限られてくる。たいていはマツだ。中国山地にマツ林が多いのも、戦国時代からの製鉄・製塩産業のためとされている。
さすがに危機意識を持った時の為政者や学者の中には、森林の重要性を説き、森林保全策を練った。江戸時代には農学書がいくつも発行され、治山に力を注いだ政治家であり学者でもある高知の野中兼山、岡山の熊沢蕃山なども登場した。しかし、それらの努力は、基本的に人口圧力の前に敗退した。
このような状況を鑑みると、最近よく語られる「江戸時代は、エコロジカルで自然が守られた時代だった」という声はそのまま信じることはできない。むしろ江戸時代こそ、もっとも森林破壊の進んだ時代だったのかもしれない。
……
「緑が減っている」
と思わせるような情報が多いのは、何故なんでしょうか…?