嘘を、ついたのだ。
その嘘によって享受する恩恵に罪悪は覚えず、むしろ純粋に、ちょっとした冒険心を掻き立てられた。
僕はその夜、【峰下(※仮名)】でなければならなかったのだ。
峰下さんから連絡を頂いたのは、ドバイには珍しいうろこ雲の広がる、涼やかな昼下がりの事だった。
『レストランの1周年で二人分の招待券があるんですが、私一人で行くのもなんなので、もし良かったら、お二人でいらっしゃいませんか?────』
家族は日本にいて、単身でドバイに来ている峰下さんは、誰かを誘って自分が行くのではなく、その二人分の招待券を譲ってくれるというのだった。
妻からそのメッセージを聞いた僕は、自宅の窓に視線を向けた。流れる雲の隙間に、僅かな蒼天が覗いていた。
冷めたコーヒーを水のように飲んだ。
基本的に、自腹で高級レストランへ行く事など無い僕にとって、それはまさに、待ちあぐむ垂涎の機会だった。
好きな酒は何かと聞かれ、迷わず『祝い酒、そしてタダ酒』と即答する僕に、その誘いを断る理由など一遍も無い。
ただ、一つだけ気になる事があった。
そのレストランからの招待はあくまで、日本の一流商社の駐在員で、その会社において非常に高い役職にある【峰下さん】個人に対するものあり、決して僕ではない。
1周年記念に招待されるという事は、峰下さんが日本企業の偉い人だからこそ。或いは、余程の常連────。前者ならまだしも、もし後者だとして、店の人と顔見知りだったら、気が引ける。
どこの誰とも分からない完全な初来店の僕がのこのこ行くのは憚られたが、そんな心配をする必要は無いのだと、何気ない峰下さんの一言が教えてくれた。
『私も、随分前に二回くらいしか行ったこと無いのですけどね────』
だったら何も怖くはない。店側も【峰下】さんがどんな人なのかなど、覚えてはいまい。
その夜は、僕が峰下になれば良い────。微かな躊躇いは、風に吹き流されるうろこ雲と共に、斜陽に透き通る空の青に薄らいで消えた。
レストランは、アルハブトゥールにある【権八】という店だった。
西麻布の交差点にあるあの権八の、フランチャイズとしての店舗で、アルハブトゥールグループが経営していた。
当然、その店の存在は知っていた。
一年ほど前、ウードメッサにある老舗の日本食材店【ディーンズフジヤ】に行った時、背中に大きく【権八】と書かれた法被を着て買い物をしている日本人を見つけて、話しかけたことがあった。
その当時も、西麻布の権八がドバイに出店するという話は知っていたので、そこの料理人だろうと思ったが、その人はマネジメントとして来たのだと言っていた。
もともとは日本の権八の社員として来ていて、プロジェクトの進行が滞った際に会社を辞め、ドバイ出店の仕事からも離れたが、計画の再開に伴い、アルハブトゥールグループに呼び戻された、というような事を言っていたのを覚えている。
ドバイに来て日も浅く、仕入れなど苦心していると言う事だったので、老婆心で業者の事など事細かに話して聞かせた。
その時の見返りが、形を変えてもたらされたのだと、この機会を都合の良いように捉えて、僕は得心した。
店は、数年前に作られた人工の運河、ドバイ運河沿いのアルハブトゥールパレスの隣にあった。
アルハブトゥール家の三人の娘の名前を冠した高層ビル。その地上階に作られた路面店は、かなりの規模があった。
午後6時過ぎ。外から店の中を覗く。数百席はあるであろう広い店内に客の姿は無い。
スマートフォンを取りだし、転送されたメールを探して『Mr. Mineshita(※仮名)』と書かれた招待状の画像を開く。
さあ、Mr. Mineshitaになる時が来た。
軽く呼吸を整え、着慣れないジャケットの襟を両手で正す。
物腰優雅に、あたかも、自分はこの店の常連で、もう数え切れないくらい来ているのだ、という顔で平然とレセプションに声をかける。
「ふむ。招待状を、貰ったんだが」
人生で初めてこの店を訪れる僕に、胸の谷間を全開にした南米系美女は疑いを持たず「ようこそ! お名前は?」と返した。
「うむ。峰下である」
「お待ちしておりました! こちらへどうぞ!」
こんなに上手くいって良いものか、と、心の中だけでなく、あからさまにほくそ笑む。
まるでいたずらに成功した子供のような、幼稚な達成感に満たされながら案内された席に着く。
妻が「ふふふ……峰下さん?」と、少しいやらしい笑みで僕の顔を覗き込んだ。
思えば、ドバイにあるほとんどの和食レストランで、僕は財布を出したことが無い。
プレオープニングのイベントだったり、ご招待だったり、高級レストランでお金を使うという感覚が、僕は乏しい。
もっとも、そういう機会でもなければ、そんなレストランへ行こうなどとは思わない。
高級な料理など、自分で作った方が余程安くて美味しいに決まっている。
ワインだって自分で買ってくれば、同じものを半額で飲める。
ただ、生ビールだけは違う。
あれだけは、店でしか味わえない。
そこに、高級レストランには一切金を落とさない僕が、くそ不味い料理を出すパブへだけは惜しみなく金を払う理由なのだが、その持論はいまだ妻の理解を得ない。
祝い酒、タダ酒、そしてビールを好む僕は、当然ここでも生ビールを期待したが、案の定、それはこのご招待プランに含まれてはいなかった。
瓶ビールも、スパークリングワインすらもなく、飲めるのは赤と白のワインと、ハードリカーに限られていた。
好きなビールがなく、スパークリングワインも無い。だが、タダ酒がある────。
僕に一切の不満は無い。
ビールより、スパークリングワインより、僕にとってはタダ酒の方が価値がある。
ワインをガブ飲みして元を取ってやる!────。と、つい思ったが、考えてみれば元など何もかけてはいない。
強いて言うなら、店と自宅の往復メトロ代6dhs。
タクシーにすら乗らない僕がこの夜にかけた【元】は、それだけだ。
だが、気をつけなければならない事があった。
こういう場で供される飲み放題のワインは、尽く質が悪い。
美味しくもない上に、ことの他、二日酔いが酷い。
もう四十も半ばに差し掛かり、酒の嗜み方という物をようやくほんの少しだけ分かってきた僕は、その手のワインは匂いだけで分かるようになっていた。
当たり障りの少ないであろう白ワインを頼み、慎重に香りを確かめる。
芳香が乏しい分、それほど強い醸造アルコールの匂いはしない。口に含むと、希釈したような薄っぺらい味が弱々しく広がる。
────合格。
飲み放題のタダ酒、二日酔いにならない程度のクオリティであれば、これで十分。
安心して最初の1杯を飲み干し、2杯目がグラスに注がれている時、店のマネージャーと思しき一人の男が挨拶に来た。
「ミネシタサマ」
日系の外国人だろうか。一見日本人に見えるその男は、少し不自然な日本語でそう言った。
そうだ、今僕は、峰下だ────。心の何処かにある峰下スイッチを、僕は押した。
「今日はお招き頂きありがとうございます」
「こちらこそ、いつもありがとうございます」
しめた────。僕は、思った。
この男は間違いなく【峰下】が誰であるかを知らない。そうでなければ、『いつもありがとうございます』という言葉は出ない。
そうでなくとも、本物の峰下さんですら、だいぶ前に二回来ただけ。たとえ会ったことがあるとしても、覚えているはずなどない。
心に湧き上がった余裕が、言葉となって転げ出る。
「随分前に少し来ただけなのにご招待頂いて、ちょっと驚きました……このお店が出来たばかりの頃でしたが、その時もいらっしゃったかな……?」
「そうでしたか、こうしてまたご来店頂けて何よりです。実は私は三ヶ月程前に入ったばかりで……どうぞこれからもよろしくお願いします。では、ごゆっくり────」
そうかそうか、そういう事か。これでもう何も怖くない。ここでは誰も僕を知らず、そして誰もが【峰下】である事を疑わない。
言い知れぬ満足感と共に二杯目のグラスを傾けると、最初の料理が来た。
ごまドレッシングっぽいのがかかったサラダ────。実は、この店の料理の評判は多くの人から聞いていた。
それらは一様に、惨憺たる評価だった。
どれ程酷いのか?────。期待せず、ある意味で期待しつつ何の変哲もないごまドレッシングサラダを口へと運ぶ。
────合格。
逆に、こんなものに美味しいも不味いもない。普通の野菜に普通のドレッシングをかけさえすれば良い。
流石にこれはなんの判断基準にもならないと思っているところへ、次なる料理が運ばれて来た。
焼き鳥────合格。
日本の安い居酒屋と何ら変わらない普通の焼き鳥。
果たしてこれがいくらするのか分からないが、もしこれが高かったら、と思うと、他の方々が酷評するのは頷ける。
ちょうど、それぐらいの品質だ。
料理は恙無く運ばれ、それに伴って客も増え始める。
見渡すとすっかり満席になっていて、日本人は一組しかいなかった。
この店のターゲットは完全に外国人なのだろうから、それで良いのだろう。
宵に酔いはじめた居酒屋の景色が、峰下でなければならないという微かな気がかりを完全に消し去る。
調子にのって白ワインを一本ほどは飲んだだろうか。メインコースとなる銀鱈の味噌漬けと天丼が運ばれて来た。
味付けはそれぞれちゃんとしていて、銀鱈に関しては十分に美味しいと言える味だった。
期待値が低かった分、満足度は高い。何より、タダなのが良い。
「何らかの形で、峰下さんにはお礼をしなければいけないね」
そうでなくとも、常日頃から峰下さんにはことある事にお世話になっていた。
家にご招待させて頂いて、食事でも召し上がって頂こう、さて、何を作ろうかな────。妻とそんな事を話していると、僕をその【Mr. Mineshita】であると疑わない店のマネージャーがやって来た。
「お料理は如何でしたか?」
「ああ、大変美味しく頂きました。是非また来させてもらいます。とても美味しかったので、この次は友人たちと一緒に来たいと思います」
僕がこの国にある和食レストランへ金を払って行く事など、何があろうと決してない────。心にもない社交辞令をにこやかに吐き散らかす僕に、そのマネージャーは思わぬことを口にした。
「確かすこし前に、【Kinoya】へも来て頂きましたね?」
それは、予想だにしない問い掛けだった。
Kinoyaとは、グリーンズにある複合ビル、【Onyx】にある和食レストランで、親しい友人がやっている店だった。
数ヶ月ほど前、その店にもたった一度だけ、ご招待で行ったことがあった。
何故それをこの男が知っているのか? アルハブトゥールグループとKinoyaは、何の関係も無い。
何故だ?────。男は告げた。
「以前は私、Kinoyaで働いていまして、その時にお見かけしておりましたので……是非この権八もよろしくお願いします」
あの時、僕は【Kinoya】を経営する友人の客【Chef Tatsu Onodera】として招かれていた。
つまりその男は、僕が【Mr. Mineshita】ではなく、【Chef Onodera】である事を知っていたのだろう。
「……ええ、もちろん」
僕は短くそう答えた。男は笑顔で会釈をし、長居はしなかった。
空いたグラスに再び白ワインが注がれる。
なんだ、気付いてたんかい────。
こんなタダ酒も、たまには悪くない。
一度くらいは、この店に普通に来てみよう。
その時僕は、Mr. Mineshitaなのだろうか? それとも────。
やっぱり、もう一度来るのはやめておこう。