morning musume history review #11


山口百恵の「プレイバックPart2」を聴いていて、ふと、「女と男のララバイゲーム」を思い出した。
「プレイバック」は、曲中で何度か無音状態になる場面がある。あの静寂に微動だにせずに次のフレーズを歌いだす瞬間には鳥肌が立つ。
ファンの方ならご存知だと思うが、「ララバイゲーム」でも何度か曲中で無音になる時間がある。
おそらく、制作陣は意識していると思う。歌詞の内容も、現代版の男に振り回されながらも強く生きる女の姿で、似ている。

現代のJ-POPシーンの中で「ララバイゲーム」のような曲が出てくると、かなり異色だ。こんな曲を出しているアーティストはもちろん、アイドルグループはほとんどいない。
しかし70年代、80年代の歌謡曲にはこのようなトーンの曲がたくさんあり、それがスタンダードだった。
つんく氏が歌謡曲好きなことはシャ乱Q時代の曲などを聴いてもはっきりと分かる。
このころの歌謡曲をリスペクトし、「ララバイゲーム」他一連の歌謡テイストの濃い楽曲を作ったのではないかと思う。そして、高橋愛に山口百恵を重ねているのではないかと思う。ストイックに芸を極めることに注力するところにも共通点が見出せる。ライブでの「愛して愛してあと一分」の佇まいには、あの頃のアイドルの覚悟のようなものが確かに見える。思えば、愛して愛して~も、非常に歌謡曲テイストが濃い。(この曲は中森明菜か)
高橋の卒業コンサートでどんな演出が行われるかは、寂しいが今から楽しみだ。

先日は、テレビで子役時代の美空ひばりを見ていて、ふと鞘師里保を連想した。
妙に大人びた言葉遣いや、子供ながらすでに芸が完成されているところなど、こちらもかすかに共通点が見える。
鞘師が美空ひばりのような大きな存在になれるかはまだ分からないが、可能性を秘めていることは間違いない。


現代のアイドルシーンにおいて、モーニング娘の立ち位置は非常に特殊だ。
「これ以上長く一緒にいると私もだめになりそう」という歌い出しのシングルを平気な顔してリリースする存在は、他にはいない。
シングルタイトルが発表になったとき、曲を初めて聴いたとき、ファンはたいていびっくりする。「なんだこれ」と。
しかし、リリースされて何度も聴き、ライブでのパフォーマンスを見ていくうちに、いつの間にかその世界観に慣れ親しんでいく。



正直なところ、ここ20年くらいの大衆音楽には、深みを感じない。
それは自分の多感な時期が過ぎてしまったことによるものもあるだろうが、それだけではない気がしている。

自作自演をよしとする風潮が、大衆音楽のレベルを下げてしまっているのではないだろうか。
歌詞と曲をもらって歌い手に徹する存在が消え、誰もが作詞をするようになってしまった。そして、作詞だけでもしていればアーティスト、何もしていなければ劣っている人、というイメージがついてしまった。歌手という存在が軽視され、稚拙な歌詞と下手な歌で一流を気取る人たちで溢れるようになってしまった。
その中で、モーニング娘の存在は際立つ。彼女たちは自分で作詞はしない。与えられた歌詞と曲を歌い、決められた振りつけを踊る。よほどのことがない限り、アドリブもしない。(もちろん口パクもしない。)どんなにメンバーたちが泣き崩れるようなライブであっても、彼女たちは絶対に編隊を崩したり、歌いづらいところを客席にマイクを向けて歌を放棄するようなことをしない。そこに、あの頃の歌謡曲の歌手が持っていた、歌手という職業に対する誇りを感じる。モーニング娘は、アイドルという形をした「歌手」だと思う。「アーティスト」ではない。「歌手」。


今年初めの5人になった時期は、より強くそのテイストが出ていた気がする。
あの横浜アリーナでの卒業コンサートの後、日付が変わって公式ページから3人のプロフィールが消え、5人になった瞬間。そこから9期が入るまでの期間は、今の日本のエンターティメントではなかなか味わえない荘厳な雰囲気があった。
もう叶わぬことだが、あの5人で一曲出してほしかった。誰よりも、残されたメンバーが寂しく辛かったはず。そんな中でどんな曲が歌われるのか、聴いてみたかった。





10期。どんな人が入ってくるんでしょうね。
今年のハロプロは攻め続けていて、危なっかしいながらも非常に楽しい。この難局をどう乗り切るのか、この先数年がとても楽しみだ。(toggle)