その時の出来事で覚えていることを風化させないために
この一連の記事を書かせていただきます。
テレビで取り上げられる方のように特別なことはありません。
ただ、私なりに感じていることを私なりに書かせていただきます。


20年前 1995(平成7)年ちょうど、1/15,16は連休で
私はその連休を使って引越しをして
初めての一人暮らしにワクワクしてました。

この時、母は3人兄妹の下の妹を連れて再婚先の熊本に引越ししており、
真ん中の長女は、看護の学校に通っていたので大阪市内の寮に。

16日の夜は、当時お付き合いしていた5歳上の彼女の家で
ささやかなお祝いをしてそのままお泊り。

すると、いつもは目のさめるはずない時間に
目がパチッと覚めました。
 
時間は5:45

すると、ド~ン!と何かが建物全体にぶつかったような音と
下から突き上げられる衝撃が!
 
ビックリすると、すぐ建物全体がゆさゆさと
揺さぶられる揺れがしばらく続きました。

とにかく、彼女の上に覆いかぶさり
揺れが収まるのを待ちました。

彼女は、前日私がハッスルしすぎて
疲れていたのか、ぐっすり寝ていました。

彼女は私がかぶさって守っていたことなど
知らなかったようです(笑)

その後、一緒に起きて驚きました。
寝室にはほとんど物が無かったので
気がつかなかったのですが、
タンスが倒れたりして、物が散乱していました。

それを片付け外に出ると
彼女の隣人のおばあさんが困っていました。

食器棚が倒れて、ガラスや陶器の破片が
床一面に飛び散っていたので
それも掃除しました。

彼女宅から私の自宅まで原付で5分くらいだったので
自宅の様子も見に行きました。

ずぼらな性格が幸いし、
ほとんど引越し梱包を解いていなかったので、
テレビが台から落ちていただけですぐに彼女宅に戻りました。

実は、とても大変な状態だったのですが、
それに気付かず、ぱっと見て戻ってしまいました。

彼女宅をほとんど元に片付けて
隣のおばあさん宅も部屋から玄関まで行き来できるようなったころ
ちょうど出社時間だったので、
原付で神戸市内の大倉山へ通勤しました。

そのときはまだ報道をみていなかったのですが
なぜか原付で通勤しました。

2号線を通って、山手幹線 というのがいつものバイク通勤のルート。
その2号線で武庫川を渡った後にとても違和感がありました。

沿道がすっきりしすぎているのです。
毛布に包まって立ち尽くす人が沢山いました。

みんな自宅が倒壊していたのです。

まずは、出社しようと心に決め神戸市内を目指しました。

国道は大きく陥没し、陸橋はガタガタに崩れていました。
沿道のビルもほとんど崩れ1階が無いものや
真ん中がつぶれているビルもあり、
私は何も出来ないことに、涙を流しながら勤務先をめざし、
院長や病院の無事を祈るばかりでした。

いつもの何倍も時間がかかって何とか勤務先へ到着
見た目は大丈夫そうで、中に入ろうとすると鍵がかかっています。

自宅が病院の上なので、呼び鈴を押すと
院長が出てきて、私の無事を確認できて喜んでくれていました。

院内の機材が移動して使えない状態だそうで
しばらく自宅待機となりました。

それから、何とか自宅へ戻り部屋をゆっくり見ました。
なんと、建物全体が歪み、床が斜めになっています。

ドアは開くのですが、柱と壁の間に隙間が出来て
部屋の中に木漏れ日が入ってきています。

ようやくテレビをつけ、この大震災の被害のすごさを知ることになったのです。

夕方に、大阪市内から妹が自転車で私の安否を確認しに来てくれました。
あの時の妹の表情はまだハッキリと覚えています。

ガスはプロパンだったので無事に使えました。
水が断水していたので、大屋さんの自宅前が水が出ているので
そこに毎回汲みに行くことにしました。(徒歩5分)
タンクやカートなど大屋さんが用意してくださいました。

テレビを見ることができず、彼女も出勤していてので
一人になり、どうしたものかとその日は考える一日でした。

つづく