まず。

どうしても見てもらいたいとか、困っているとかそういったことなく、なぜさんか希望したのかよくわからないほどに、反射的に手が動き、参加希望していた。

誘ってくれたお友達、MさんとはSNS でのお友達、リアルでは数回お会いしちょこっとお話しした、「知り合い」だった。

彼女の宇宙グループにはいりたいと思ったことがあった。正確には、入るべき、と思ったというほうがただしい。しかしわたしのそのときの決断は「まだその時じゃない」だった。

同時に、「ちゃんとその時が来る、そう遠くない」という声も聞こえたので、そのまま置いておいたかんじ。

実はこういった、声が聞こえることは比較的よくあり、これまでも、思い付いたことが二年後ぐらいに流行したり、本気で気に入った店は大流行して入れなくなったり(笑)そういったことは数えたらきりがない。

誰かわたしの意識を盗んでる?なんて思ったこともあった。招き猫体質だと思っていた。
そして、考えたことが流行るのも、きっと誰もが思い付くレベルだからなんだよね、と半分納得していた。

今日、ソウルセラピーカウンセラー さんにお会いした。

何を?どう? これをしてほしい、ということが思い付かない。

守護霊に聞いてみようということになっても、守護霊に拒否られて(笑)さて???となった。。。が、そこから。

そこからである。
他人と話をするのが苦手なわたしたちのカバー、盾でもある歌由衣が、引っ込み、わたしが話をした。
わたしは主人格ではないが、生活する上での決断、判断はわたしの役目。なので、この体の生活している上でのたいていの情報はつかんでいる。それをお話ししたのだ。

わたしの、わたしたちの、いろいろな心のブロックが解除された。

守護霊から話す許可が出たと言われて呼び掛けたが守護霊が多すぎて(笑)話せないと。
そこで守護天使とのお話に。

手をあわせて天使に呼び掛けているとき、ミカエルの姿が見えた。

カウンセラーさんが涙ぐみながら天使の言葉を伝えてくれた。。。

よく頑張ってくれた、やっとつたえられた、と。
他にも天使の言葉を伝えてくれて、天使の名前が出た。

ミカエルというのですが

はい、さっき見ました。

早い

そんなことをいろいろと、その都度自分のことで曖昧のまま放置していた疑問や腑に落ちないでいた問題がすべて、すべて解決を見せた。

正確にいうと、セラピーを受けている間に話される言葉に、いちいち、あ、そこが問題だったんだ、だからか、なんだ、そういうことだったか!という「気付き」をもらったのだ。

勘違いしないでほしいのは、こちらのいろいろをべらべら話した訳でもなく、やたら質問された訳でもないのだ。。

そして、先に挙げた不思議なこと、わたしは預言者だったのではないか、と。

そして、今も。

確かに。見えるもの、信じていいんだな、と思った。

意識の状態にも、その人の状態にもより、不安定ではありますが、向かい合いその人の気を受けとると、その人の未來が映像で見えるんですよ。実は(* ´ ▽ ` *)

今まで、頭おかしいと思われたくなくて、黙ってました。これからは、隠しません。宣伝もしませんけど。

現代で職業もと占い師、的中率98%は、事実ですよ( 〃▽〃)もう30年以上前ですけどね(笑)

YOSMAS DESINO 
メンバ
Sio 
Artista YUI 
Yui 
Yk
Maria 
Riza
Kaoru 
AIKO
Takashi 






東京駅


本郷の病院から田町に行くのに、地下鉄➕地下鉄にするか、地下鉄➕JR にするか迷い、結局どちらも苦手な丸ノ内線を使うのだから、と地下鉄➕地下鉄、大手町で乗り換えようと思ってドキドキしながら地下鉄に乗り込んだ。


うーん、この混み具合ヤバイかも。。。でも、回りは空間あるし、など自分を必死で落ち着けながらなだめながら。


こないだから地下鉄チャレンジを少しずつやって、少し、いけるじゃん?と傲っていたかも知れない。
大手町近くなって、あれ?なんか、変。身体、いや、夕べから時々身体半分が動けなかったりしたけど、まぁ、それは、いつものことだし、と。。。


仕方ない。当初予定は変更、地下鉄➕JR、これなら大好きな東京駅通れるし。そうだそうだ、それがい。。。い?
降りる直前、胸の下あたりが痛んだ。昨日しびれたとこだ。え?いや、こんなことはじめてだし。え?え?え?。。。と思ったときには、うずくまるように胸を押さえていた。
痛みが酷かった訳ではなく、その状態に驚きすぎて、団子虫になりかけたわけで。
東京~ 東京~
お、降りなきゃ!焦る。非常に焦るのはよくない、けど、わかっちゃいるけど焦る(笑)
ふらつきながら降りたとたん、目の前のホームの椅子に近づき、荷物を置くなり椅子の背に手をついて、身体を支えた。

椅子の左隣のおばあちゃんは大丈夫ですかと座った方がよくない?と椅子を移動してくれ、なんと右隣の人は。。


苦しいですか?といきなり背中をさすってくれて、かろうじて大丈夫ですと言うわたしに(それでも見ていて過呼吸だとわかったかも知れない)座るように促してわたしがおいた鞄を持ち上げ席をあけて、ずっと背中をさすってくれて「ゆっくり深呼吸してね」と神様みたい( ;∀;)

一言でいうと“介抱してくれた”訳です。


ありがとうございます。ありがとうございます。知らない人に触られたり話しかけられることで余計にバクバクしたけど、それでも、マスクの上に見える眼差しのすんごい優しさに、極短時間で落ち着きを取り戻せました。


東京駅で休みながら、田町へ。

ゆっくり歩きながら。


ありがとうの日。

前回から間あいちゃいました。


環境が変わって、ちょっと、世間に馴染めずにいます。


さて、計算が苦手、というところからの続きです。


わたしがExcelで数式やマクロを組むのは、計算が苦手だからだ。いや、恥を忍んで正直に言うと、計算が出来ない、のである。

小学生の時、誰かが宿題で作ったクラスメイトカルタで、「計算上手なふじさわさん」と作られたときには、恥ずかしくて死にたくなった。

なぜなら、わたしは小学校卒業するまで、足し算も引き算も、指を折って計算していたのだ。

 

必死で勉強した。本当に、必死に。でも、今でも、暗算は必ず間違える。電卓を使っても、三回確かめ算をしても、合わないことなどしょっちゅうだ。

 

計算は、出来ない のだ。特に、足す、引くは、無理といっていいほど、私にとって難しい。

それでも、紙に書けば、なんとか時間はかかっても計算は、できる。あってないことが50%はあるが。。。

 

だから、Excel、その前の表計算ソフトLotus 123に、計算させたくて、関数式を覚えた。

もっと間違えを、なくしたくて、計算の面倒とリスクをなくしたくて、当時のDBASE 3も覚えた。

そのデータベースソフトの間違いのリスクを減らしたくて、C言語の基礎も勉強した。これは勉強したつもりなだけで、プログラムなどは書けなかったが、その後のMS officeのACCESS のプログラムを少し紐解く位には役立ってくれた。でも、どれもまともにはできていない。なぜなら、図形や一次関数は理解できるのに、計算が出来ないのだ。

 

計算は、基本のき である。しかし。しかし、本当に簡単な計算なら、できる。計算の考え方はかなり、変わっているらしいのだけど、答えは出る。正解は50%ていどだけど。

おかしいな。足し引き算が出来ないなら、正解率は50%いかないのでは?

 

そうして考え続け、観察し続けて最近、わかってきたことがある。わたしは計算が出来ないというよりも、「数の羅列の、ある何かの定義に基づいた場合の認識」が苦手なのかも知れない。

 

月に一度もらった薬、本来は朝、昼、晩に服用すべきところ、医師と相談してもう何十年も、1日二回にしてもらっている。昼、という認識が出来ない。のみわすれる、余る、数が合わない、わからなくなる。

何度も何度も昼飲むことにチャレンジしてきた。結果、混乱を招いただけだった。

もらった薬、前回は1から番号をふった。私にしては当然、途中書き間違えてたりする。

番号順にのめばいいなら、大丈夫!とやってみたが、今、何番か?を認識できず、飲んだ?飲まない?を覚えていられず、過分服用でふらふらになったり。

 

だから、今回は日付をつけてみた。

日付も、わたしはよく間違える。でも、これなら、まだ、いろんなリスクを回避できるんじゃないか?とチャレンジするのだ。

 

わたしに、「なんでもできる人」なんてありがたくも過分な印象を持ってくださった方々は、まさか、薬に日付をふって、それでも飲み間違えるとは思ってないだろうな(笑)

 

そして、逆にわたしの病を知った人は、営業で間違いだらけの見積書で出し直しばかりしてるわたしに、仕事とってこれると思ってもいないだろうなぁ。狭い狭い世界では、ずっと売上げあげてきた。

 

計算ができない。というか、、数の認識が違う。だから、営業として、数字じゃない「価値」を探し続け、お客様のニーズの変化にあわせて、いや、先んじて提案し続けて来たのだ。私なりに。

 

 だって、計算できないし、数わかんないから、なるべくそういうことしなくて済む、世の中にしたいもん。

 

それだけなんだよね。。。。

次回は、「認識の仕方について」になりそう。

 

チャカポコ。


Sio

 

よく、「自分を知ることからはじめよう」という言葉を聞く。
そりゃぁ、自分のことを、たとえば音痴ではないのに音痴だと思い込んで歌をうたうのを嫌ってきたその人が実はすごいまれなる魅力的な声とすばらしい音感をもっていたとしたら、「自分を知らないでもったいない」といえるかもしれないけれど、そこまで何かにおいてすごい力をもっていると、たいてい周りが気付くものだ。

だから、「自分探し」とか「自分を知ろう」という言葉ほど、わたしやわたしたちにとって”嘘くさい”言葉はないのだ。
キャッチコピーとしては お!そういえばわたし、自分のこと、よく考えてなかったかも?と気づかせてくれるかもしれないが、それだけのことだ。

ほとんどの場合、ふつーに生活(ここでいうふつーは、基本的生活(食う、寝る、遊ぶ)と、社会的生活(自立、働く、学校やコミュニティへゆくなど)の、両方が、多少の不都合や不具合があってもできていることを言っています)している中で、少しずつ、「自分」が形成されていく中で、他からの評価、テストなどどうでもいい数字的な評価、そして自己評価がまぜこぜになる。

わたしたちの場合はというと、他からの評価が下されると、すごくとまどう。「いったい、誰のことを言っているのか、だれに対してなのか」わからないからである。

だから、しかたない、自己評価を互いにする。他からみると、「自分に厳しすぎる」「完璧主義なのでは」「自分に甘い」 ええい、うるさいな、となるわけです。
どれもこれも、しらないくせに、わたしたちのほんの欠片を見てるだけで、遠慮なく「評価」を下したりされる。

めんどうだから、人付き合いをやめたwww

でも、解離性人格障害でなくとも、「わたしのこと何も知らないくせに何いってるの」ってこと、あるよね。ふつーの人でも、そうじゃない人でも。だからね、そこは、それでいいと思うの。

例えば、Aさんがいたとする。AさんのまわりにはB彼氏、C親友、D親 E社会的つきあいのある人 F友達 とあったとして、
Aさんに対しどういう人だと思う?と聞いたら、BからFまでの人たちのいろいろな意見がでてくる。 Aさんにそれを伝える。
なるほど、そういうふうにみられていたか、え、酷い、そんなふうに見てたの! などなど Aさんはその性格において いろいろな感情をもつだろうけれど、どういう風に感じてどうしようが、それは Aさんの自己評価 : 他人の評価  なのである。数、意見数は関係ない。

私たちの場合、このAさん の部分が、複数いるわけで。だから、 Aルームメイトたち : 他人の評価 ただし他人は 相手をひとりだと思っている っていうところが、コミュニケーションがうまくとれない、うまくいかない、誤解されていると感じる、などなど、言葉にするとAさんの時とおなじようだけど、実際はまったく、
まったく、まったく、まったく、 違うのである。

ここは、ほとんどの人が理解できないと思う。

で、何が言いたいのかというと、前回書いたように人がわたしのことを「なんでもできる」と判断するのは、大間違いで、ただわたしたちはそれぞれにできること、できないことがあり、しかも Aさんのように「自己評価」だけでなく 自分たちの中で他人の評価もしているので、自己評価と他人評価のギャップというのは 本当はないのである。ただ、それが多様すぎて、他人様にはついてこれない。

たまに、「第三者的に自分を見る」ことができる人がいるけれど、これは、なにかあるひとつのことに対してそういう見方をすることができる人はかなりの数いるのだけれど、自分のことを第三者的にみることができる人、っていうのは本当に少ない。

さぁ、何ができて、何ができないか。
考えるのがばかばかしくなってきませんか?

「自分探し」不要。「自分を知る」不要。  もしあなたが、ふつーの人で、他人からの評価を受ける機会が(社会的生活の中であれ、基本生活の中であれ)1個でもあるのなら。

 


”それを受け止める” 

これが、つまりは自分を知ることになると思うのね。

受け止めるっていうのは、言われたことにすぐ反論することじゃない。その事柄を、きっちりと納得いくまで自分の方法で咀嚼して、理解しようと努力し、自分の思う自分やこれまでの行動と照合して、そして 答えを出そうとする、というとこまで。

それができない、って人は、そもそも、キャッチコピーにあおられて、”本当の自分を探すんだ!”なんていってもね、できないと思うよ。

「自分に何ができて何ができないか」はしょっちゅう変わるし、努力で克服されたり、あるいは新しく生まれたり。いろいろあるから、今。いま、どう?ってのを知るには、ふつーに生活する中でいーーーーーーっぱい 見つけられるはずなのね。

 

それにはね、そうね、がんがん進んでいる気持ちのひとは、ちょっと止まって、半歩さがってみたらどうかしら。

わたしたちは常にそうして、まるで傍から見ると、おなじとこぐるぐるまわってるようだわねーーーwww

今回はちょっとわかりにくい話になっちゃった。とりとめなかったね><;
やっと、次回、わたしが計算ができないのよ、でもそれをばれないように、じゃないけど、どうやって社会的生活をこなしているかの部分にはいっていきまーす。

なんで今回こんなわけわからないように思えることを書いたか? それは、心の準備してほしいから。次回から、もっと迷路みたいな話になっちゃうから^^

 

 

Sio






 

今日は、自分と、その周りの社会での環境とのかかわりについて考えてみて、数回にわけて、考察を載せてみようと思う。病気ともあいまってのこととなる。

 

わたしはほぼ毎日、元気な声で話し、営業にも行き、パソコン作業もする。「わたしたち」という本来の範囲を、他の人から見える「私」という1つの体を個体とするなら、歌も歌う、占いもする、彫金もする、製本もする、複写機、断裁機、製本機も扱える、フラメンコも踊る、営業もする、デザインもする、料理もできる、ハーブコーディネーターだったりする、、、とほんとに欲張りにいろいろする「ひと」なわけで。

こんなにあれこれするなら、どれも資格のひとつでもとっておけば、今すごいことになっているだろうな とも思うけれど、それは無理。なぜなら、わたしたちは「人間」が勝手につくった1日は24時間という社会のしくみの中では、ひとりの持ち時間が1/5だったり、1/10だったりして、また思う通りに時間を使えない、などの問題もあるから、「習い事」というものが非常にむつかしい分野になる。
今の日本、わけわからん資格はお金はらって、時間さえ使えばいくらでも手に入る。そう、時間を使える人 に許されるのが「資格」だったりする。わけわからなくはないちゃんとした資格も、何年何をして、どこを卒業して、と時間とお金と勉学さえすれば取れたりするのだが、わたしには無理。

だから、資格を持ってる人を、単純にはそれだけで「すごい」とは思わないし、ましてや、わけわからん人に「習う」ことをしてる人は、わたしはバカにしてる。習うまえに、自分でいろいろしてみて、ここは教わらないと、と習うのはすばらしいと思う。
はなから あれこれ習ってやめて という人を、わたしたちの中にもひとりいるが、軽蔑する。


まぁそれは個人の考えであって、またそれだけで、そのひとの何かが決まるわけではないので、ただただそれだけのことだ。

何を習っても、できないこと、というのはある。人それぞれである。
わたしは人からみるとどうも「なんでもできるんじゃないか」と思われることが多々あるらしい。といってもここたった40年の生きてきた中での接触した人の意見なので、ほんの少数だけど。

その社会の中で生きるために会社に勤務し働く、ということを「社会生活」と呼ばせてもらう。この中には、働くうえで同僚などと「会話する」ってことも含まれる。通勤のためになにがしか「ヒト」と話をしなければならないことも含まれる。

最初に言っておくと、きちんと対話、コミュニケーションをとれる者はわたしたちの中にはいない。他人との対話は異常に疲れる。必死で数人動員し、表向き笑っていられる何も考えない彼女Y、脳みそだけ使うことに慣れている判断・決断をするための彼女S、そして「人のいうことを理解できる」彼女y  のみんなで必死に話を聞く。だが、「会話」ができない。 相手にあいづちを打つY。 聞いたことを判断し答えを出すS、しかしk、yはうまく相手に伝えられない。Sは人とはめったに話さない。Yはみんなよく知っているかもしれない、歌手であるが話せるくらいなら、歌わないのだ。

今回は、そういった社会生活の中で、一見「健常者」に見えるわたしが、どういう工夫、あるいは考え方、行動で「社会生活」をなんとか続けようとしているか、を数回にわけて、掲載してゆこうと思う。

第1回はここでおわり。次回をお楽しみに^^

S&y

 

 

 わたしには、世間がどれほど恐れてるかはわからないんだけど、「用心」は必要だと思ってる。

 結局のところ、現時点の日本にあるウィルスでは若い人は罹患しなくても「運び屋」になっちゃうわけで、お年寄りや持病のある人にお届けしちゃうと罹患率があがるだろうと予想されるから、「ウィルスの運び屋」にしないために運び屋を増やさない努力をしてるってとこかしら、と思ってます。

 既にウィルスは何種類にも変化しているのだし、たまたま日本にいるのは「弱い」変化だったのかも。つまり、誰も立ち向かえない「めっぽう強い」ウィルスにこの後、変化することも、たとえ確率が低くても、想定にいれて策を練るべきだと思うのね。

 

 不必要に恐れる必要は全くないと思うけど、インフルエンザの予防のためにも、自分のためだけじゃない防御方法が身についていいんじゃないかな~と思ってます。いままで、わたしがどんなにインフルエンザは怖いのよ、と言っても、周りの人はだーーーれも耳を貸さず、熱があっても会社にくる馬鹿や「熱くらい」と出社を命じる馬鹿はあふれるほどいたわけで。

 

 日本ではMarsもSarsもほとんど流行らなかったけど、それらで沢山の人を失った国でも、今回あの経験があったから「かなり防御できた!」って国は聞かないでしょ。。。。学んでないのか、ウィルスの感染の仕方が何か徹底的に実は違うのか。

 

 でも、日本ならそれができると思うのね。このウィルスに対する今とっている防御の仕方は今の時点では「大げさ」「やりすぎ」って思う人もいると思うけれど、この先の防御訓練と思ってみてもいいんじゃないかな。

わたしは、「運び屋にならない」ために、インフルエンザの時もすごく用心しているし、今回も同じように用心している。1年前にはインフルエンザの流行る時期にマスクをして生活していると、大抵の人が変な顔をした。中には「用心?」って聞いてくれる人もいたけど、たった一人。

だから、用心のしかたの具合 としては、政府の要請で人が集まるようなものを避けようっていうのは、インフルエンザのときも同じなのね。
みんな、①不安をあおるだけだ、そんなに怖いものじゃない ②インフルエンザと同じ、あるいはインフルエンザのほうがよっぽど死亡率が高いのだから、新型コロナウィルスに騒ぎ過ぎだ ③マスクなんかウィルスを通すから意味ないからはずそう
って言うんだよね、周りの人が。


①結論 怖いものです。 現時点で厚生省にあがる数値からみると、罹患率が低い(特に若い人)こと、罹患したのちの発症率が低いこと、そして発症したあとの死亡率はお年寄りや持病のある方、わたしのように生まれつき免疫力が低い人間などは、高いこと、そうでない人は低いこと、がわかりますよね。
わかってるのは(知らされているのは)それだけです。わたしたちは、それしか、知らないんですよ。
知らない、ということは、どういうことかわかりますか。「何が起こるかわからない」んです。それを考慮して、用心するレベルの(怖い)という感情をもつのは、大げさですか? わたしにはしごく真っ当で、理性的な考えだと思えます。
また、マスコミが不安をあおるって騒いでいる人も見かけるのですが、自分で発表されている数値をみて分析してみることもしないで、あるいは分析してる人の数値の読み解き(感情論ではなく、たんたんと分析しているもの。わたしはこれを頼りに見ています)を見もしない、探しもしないで、つまり「自分で考えることをしないで」 マスコミが言っていることを ただ怖がり、怖がらせているモノを批判する。
ごめんね。。。。 そう言う人は、わたしからみると、・・・です。怖いか怖くないかは自分が決めることなんですよ。

② ①で書いたように、まだ未知の部分が多いものを、すでに研究がかなり進んでワクチンも毎年開発されているウィルスと比べることは、妥当ですか? インフルエンザのほうが~と一度でも口にした人は、これからずっとインフルエンザ流行で行動範囲で罹患者が出るたびに、マスクして、家にこもる覚悟、できてるんでしょうか?突飛なようだけど、インフルエンザと比べるってそんなことだと思ってます。

マスクなんか たしかに、本物のサージカルマスクでも、ウィルスを防ぎきれないんですよwww だけど、わかっていることのなかで大事なもののひとつである感染の仕方、そのひとつ「飛沫感染」の「飛沫の量」を調整できるんですよ。それだけ。
「運び屋」になりたい人は、マスクしないでワイワイ友達と話して騒いでください。あなたが運び屋だとわからないと思ってます?ほとんどわからないでしょうね。。。でも、あなたの大事なものや人がまっさきに危険な目に会いますから。その代償、払う覚悟はありますか?

今後の防御訓練や運び屋にならないため そして わからないことに いきなりとびこみ 大きな害につなげないために
少しだけ、様子みません?


今の時点では、わたしの考えってこんなものです。まぁ、今回のことをもとに、政府や国や世界がそれぞれの思惑で、「やりたかったけどやれなかったこと、進まなかったこと」を進めるための材料にしてるのは、事実でしょうけど。。。日本でいえばマイナンバーとかね。いきなり登録証じゃ証明効果がないようにしてしまい(当初とまったく話が違うけど、説明もなくいきなりだったよね)、カードをつくらせようと必死。  ま、いいんじゃない?ピンチはチャンスなんだから。

by Sio

 

ケトン食のメニューをあれこれ考えていますが、今は主に多くの糖質制限、ケトジェニックダイエットの方に悲しい問題である、「甘いもの禁止」に近いことだと思います。

でも、最近は糖質制限された食べ物もたくさん出回っていて、少し安心できますよね。
でも、注意してくださいね。「糖類0」は、糖質がないわけじゃないですから~

 

まず、炭水化物は、そのほとんどが糖質です。糖質+食物繊維=炭水化物なので、炭水化物の量から食物繊維の量をひくと、その食品の糖質の量がわかります。(たいていはちゃんと表示されていますが、表示されていない場合は、炭水化物=糖質 と計算して問題ないです)
 

で、糖質の中に、糖類や多糖類や糖アルコールがあります。
果物やはちみつに沢山含まれるぶどう糖、果糖が単糖類。
お砂糖は二糖類。
この単糖類と、2糖類をまとめて、糖類、と言います。
お米や小麦粉、おいもに沢山含まれる澱粉は、多糖類。これは、糖類とは呼ばず、多糖類です。
糖アルコールは、キシリトールやソルビトール、エリスリトールなど天然にも存在する「甘味料」とされるものたち。

「糖類ゼロ」と書かれている食品は、上記の「糖類」つまり、果糖や砂糖が100mlあたり0.5g未満しかはいっていません、という意味です。
「糖質ゼロ」なら、糖類も、多糖類も、糖アルコールもはいってないよ、ということになります。

甘いもの(スィーツ)食べてないし、ごはんは控えめにしてるから、ほかのものはしっかり食べるわ、と安心して、ジャガイモやトウモロコシや焼き芋食べたら、それはお砂糖がっつり食べてるのとおんなじくらい、糖類摂取してます。

でも、甘いもの、欲しくなりますよね~。
糖質制限中はミネラルも減りがち。ナッツは体にいいけど、とくにくるみはとってもいい❤ 女性にはめっちゃいい❤ 

というわけで、「糖類0」に近い(くるみには糖類が含まれます。 くるみの栄養素

 

 
てのひらに軽くひとつかみが、およそ30gです。

今日のスウィーツメニュー❤
 

くるみの糖まぶし
【材料】(100g)

◆生くるみ 100g
-カラメルの材料-
◆生クリーム 20g(バターでも)
◆ラカントS  20g(甘くなくしたい場合でも、この量は必要です)
◆塩 ひとつまみ
◆ゴマ油(分量外)

-きちんとキャラメルにしたい場合は-
生クリーム30g、ラカントS30g、塩ひとつまみ でしっかり火を入れる。

くるみをひろげて糖がけをするバット(金属性が便利だけれど、なければお皿でも。ここに、ゴマ油をうすーく挽いておきます。(香りづけと、糖がキャラメルになってしまった場合、くっつくのを避けるためです)

1.生のくるみを100g、オーブンかフライパンで空焼き、空炒りします。オーブンなら、160度で8-10分くらい。
フライパンでは気をつけて、カリっとする直前まで炒ればOKです。*素焼きくるみ をつかえば、この工程は必要ありません。わたしは香ばし加減を自分の好みにしたいので、生くるみをつかっています*
バットにくるみが平らになるように置いておきます。(広げすぎない)

【皮の苦みが苦手な人は】くるみが焼けたら、ざるなどに広げてすこしゆすると、よぶんな皮がはがれます。

2.カラメルをつくります。きっちりキャラメリゼするなら、量はもっと多くしたほうがいいのですが、糖まぶしなので、生クリーム20g、ラカントS20g、塩軽くひとつまみを全部まぜて、シリコン調理皿にいれて、600Wで5分設定。3分以降、ふつふつしてきたら、一度扉をあけて、容器の中身をまぜます。まだ濁りが少なければ、もう少し加熱します。 ここからはずっと見張っています。ふつふつする泡が大きくなってきたら、粘度があがってきています。一度あけて、中身を確認します。ここでは混ぜても混ぜなくてもOK.500wに落として、4分設定にして、好みの硬さ(粘度)までもっていきます。 わたしはちょっと粘り気がでてきたなー、くらいで仕上げるのが好きです。キャラメリゼするなら、きっちりとキャラメルにしないといけませんが、糖掛けなので、ふつふつがぶくぶくとちょっと粘度がでてきたらOKです。

3.2の糖液を、1.のバットに広げたくるみにささっと掛けたら、バットの中で糖がくるみ全部にまわるように、くるくると天地を返す動きで混ぜます。

4.できあがり。冷めたら、タッパや瓶に、食品用乾燥材と一緒にいれておきます。キャラメリゼではないので、そんなに日持ちはしませんので、おはやめに。

*キャラメルの材料を多くして、しっかりキャラメルになるまで火をとおしてから、ナッツをくるむと、”キャラメリゼ”になります*

*ゴマ油の香がアクセントになって、とまらなくなります。でも、ゴマ油の香がお好きでない方は、バットにひく油はサラダ油にしておき、くるみに糖掛けして混ぜる時にお好みの香りをプラスするのもありです。シナモンでもいいし、抹茶もあり。生クリームをバターにすると、ケトン比率があがります。

❤美味しくてとまらなくなってしまいます。
❤他のナッツは、アーモンドがおすすめ。ペカンナッツは、黒糖がとっても似合います。いろいろ試してみてください~

【糖がけしたあと、バットにのこった糖は、、、】
・小さくまるめて冷蔵庫へとっておいて、コーヒーに適宜入れて飲んでみてください。おいしいのよ、これがww
 







 

 




 

先々週、ケトン食の失敗をししました。

あれこれメニューを考え、古代ケトン食をなんとか真似て実践した結果、体重が減りすぎて、体重計でみる体組織をみたら、筋肉が激減。
これはなにかまずいのでは、と食べた物を数日間分、きっちり計算してみたら、カロリーで計算すると摂取量1000Kcalに満たないTT

あわてて、脂をとりつつ、たんぱく質を増やしました。すると、、、、、

体重はすぐに2-3kgあがりましたが、具合が悪くなりました。あぁ、これはいけない、とちょうと病院へいくときだったので、医師に相談しましたら、今は、摂取栄養をあまりカロリーで計算しないんだそうです。ただの目安でしかなく、摂取する栄養素や体におきる反応などのほうが重要だと。

いや、たしかに、たんぱく質だけ2000Kcal摂取してます!とか、卵だけ食べて1日1200Kcalに押さえてダイエットしてます!なんていうのが、どれだけ体に悪いか、ということはすでに世間に知れ渡ってますもんね。わたしの考えがあさはかでした。とほほ。

古代ケトン食とMTCケトン食の両方をあれこれ試していましたが、現代でもありわたしの今の働く生活には、両方やっていくのがよさそう。探してみつけたMTCケトン食の論文を、再度じっくり読みました。

ケトンフォーミュラを使えないわたしには、なるべくいろんな栄養素をとり、弊害が起きにくいようにでも偏食をする、というのはとても難しいことなのですが、数値で計算してOKなものを食べてもケトンが出なければ意味がないし、数値ではケトン比率が3いかなくとも、実際にケトン体が出ていれば、問題ないわけです。

なので、いろんなちゃんとした脂や油の中で特に「油(植物油)では中鎖飽和脂肪酸を積極的に取りつつ、やっていきたいと思います。

この季節のメニュー❤


米なすのステーキ
【材料】(2人前)

◆米なす 傷があまりなく、みずみずしく、皮がツヤツヤしているものがよいです^^  1個
◆オリーブオイル(焼く用なので、エクストラバージンじゃなくてもOKですが、重いので、わたしはEXVを使ってます)・・・結構しみこむので、わたしは1個に対し40gくらいはかけてます。
◆えごま油など加熱しないオイル(仕上げ用)
◆かつおぶし(粉でも、花がつおでもお好みで。仕上げにのせます)

【準備】米なすは丸ごと食べますので、皮をよく水で洗います。(洗剤つかっちゃだめですよ)きゅっきゅすると思います。
ヘタが長い場合は、短く切っておくと邪魔になりません。なす類は、刃物をいれて放置するとどんどん色が変わりまずそうになります。使い切りできるように心がけてます。

 


このときは、たんぱく質も多めに取りました。油を逃さないために、グラタン皿に入れています。

【作り方(オーブングリルで焼く場合)】
1.縦に半分に切ります。

2.ボートのようになった米なすの皮と身の間にぐるりと包丁を入れます。皮を切ってしまうと、後でたっぷり染みこませるオイルが流れてしまいますので、気をつけましょう。
3.身の部分に、斜め格子になるべく底のほうまで、米なすのカーブに沿って包丁目を入れます。1つの四角い目が1cm角くらいが、食べやすくてわたしは好きです。縦横でなく斜めにするのは、米なすの形だとそのほうが包丁をいれやすいからですw

4.目がはいったナスに、オリーブオイルを少しずつかけます。このとき、好みでニンニクオイルやその他香りのあるオイルでもOKですが、MCTオイルや亜麻仁油、えごま油など、「加熱に向かない油」は使わないでください。危険です。

5.少しずつしみこませて、目的のオイル量がはいりましたら、そのまま天板で焼きます。焼き時間は各々のオーブン・グリルに従ってください。目安で、180度で18分から22分くらいです。とろとろが好きな方は、もっと長くてもOK。グリルなら皮もよく焼けますね。

6.仕上げに表面にかつおぶしをかけます。

7.好みでちょこっとお醤油をたらして、いただきます。このときのお醤油の量は、5g(小さじ1杯)くらいまでならケトン比率全くOKだけど、そんなにかけないよねww

ケトン比率 ヘタは残していいけど、皮も、オイルも全部食べて、は3.8:1位。米なす半分のgはおよそ140-150g。
摂取カロリーは270kcalくらい。 

*たとえば、これだけじゃごはんにならない、別のものも食べたい、という場合は、炭水化物じゃなくたんぱく質(いちにちの摂取量の中でを加えて、結構豪華な一品になります。たんぱく質を加えることで、ケトン比率が下がるので、その分は、0カロリーの飲み物に、おすきな油を入れて(ココナッツオイルやMTCがおすすめ)飲んで、脂肪分を埋めてくださいね^^

次回は、油ならなんでも摂取したほうがいいのかな? ってことをまとめようと思います。油ならなんでもいいわけではないのです。





 

あれからいろいろなことがあった。

2017年に”導くもの はじかれるもの”に書いた、カード。。。については、このように記してあった。

「そのときに受けとったもの。

自作の占いカードは25枚にせよ。 だった。そして、わたしは3年ぐらいかけてカードをつくることを(そのこと自体、ずっと忘れていて、こないだ思いだしたのに)考えていたけれど、どうやら1年以内になるべく早くつくらなければならないらしい。必要としている人がいる、というのだから。カードの枚数で悩んでいたけれど、25枚。よくわかる」

必要としている人が誰だったのか、わたしはなぜこのことを今思い出したのかはわからないけれど、1年以内に作ってないことは確か。

ただ、紙に描いていないだけで、25枚のカードは頭の中で出来上がっている。そして、そこに描かれた絵柄は、まるでカードを引くように、ある瞬間には勢いよく、ある瞬間には輝かしく、またある瞬間にはそぉっと、わたしの目の前で姿を翻し、そに絵柄を見せてくれる。
 

いま、わたしは人生の岐路にたっているのかもしれない。けれども、わたしの表現者としての岐路は、この2017年のブログの頃からだった。
”封じ込めなければ”と言ったものは私の中に住まい、その歌は、聞いてくれる人がいる。また聞きたい、と言ってくれる人がいる。
「あなたのこの曲を聞いてしまったら、他の人(日本人)のこの歌は聞けない」とまで言ってくれる人もいる。
そして、泣いてくれる。

カードをつくらねば、と思ったとき、3年計画だった。2017に計画し、2018、2019、2020.今年だ。
あのとき、なぜ1年以内だったのか、いまだによくはわからないけれど、1年以内にわたしは25枚のカードを頭の中につくった。ただ、いろいろありすぎて、一緒に暮らす仲間にもいろいろありすぎて、物理的につくることができなかった。。。
できれば、手書きで描いてつくりたい。ラフに。

きっと、このカードは、わたしの個人で開催する気軽なソロ(本当は今年計画していた)ライブのとき、披露することになるんだろうなぁ、と思う。

人にあって、波長がわかるとき、そしてその人が悩んでいそうなとき、わたしに見えるものがある。そして、別の次元にゆくというか、ちょっと居場所を変えて、そこから見ると、いろいろなことが見えてくることがある、、、、それをその25枚のカードに照らし合わせると、未来が読める気がするのだから。。。 わたしの頭の中には25枚のカードがあるのだわ。

A.YUI