両親は2chでいう所の膿家脳の長男教だ。

その両親の3人の子のうちの第2子が私。第1子は男の子だったが、生後まもなく亡くなっている。
名前もついているが、その死後両親は本籍地を変更しているので、戸籍には載っていない。幻の兄である。

兄が亡くなってから2年ほどして私が生まれた。父は「何だ、女か」と言っておしまい。
まあ、何というか、この一言が生家での私のステータスを著しているといってよかろう。

第3子は弟。待望の「跡取り」だ。母は純一(仮名)と名付けたかったが、父が
「一は長男につけるもんだ。純二ならいいけど純一はだめ」
と強く主張し、全く違う名前…雄二とか弘司とか(仮名)に決まったという。兄は一がつく名前ではない。

因みに、生家は所謂かかあ天下で、特に後年は母の一人天下だった。
母に「はい、はい」と従っていた父の言い分が通ったというのが、私には驚きだった。
やはり、両親の価値観はB-29以前なのだろう。

兄は生まれた時、整った優しげな顔をしていたという。
「あの子が生きていたら、こんな思いはしなかった」
と母が言い募ることがあった。

私が、母の思うように動かなかった時だ。もちろん、悪戯をしたり、言い付けを守らなかったりと私が悪い時も沢山あった。

「あの子がいたら、お前は生まれてなかった」
と続くと、何を言ってやがるという反発心しか持てない。

兄がいたら、どうだっただろう?

「跡取り」だから、大切に育て上げられただろう。言うまでもないが、兄が継ぐような伝統も財産も見事にない。せいぜい姓だが、これは増えても減っても日本中の数ある●さんの一世帯が増減するだけの話だ。

子供の時、弟にだけ隠れてオヤツをやっていたように、兄にだけは不自由な思いをさせなかったかも知れない。

弟は末っ子だから、甘やかされただろう。
実際、母が外出していると「俺の飯は?」というだけなのが、高校生になっても続いてた。
父も母も、私が弟のご飯の支度をするべきだと素で考えていた。幾つになっても。
母には、男の子にそういう生活の自立をさせる気がなかったのだ。

男子の身の回りのことは、母がする。母がいない時は私がするのが当然だった。兄がいたとしても、自分のことを自分でできない野郎が二人に増えただけだろう。

「弟は大学に行くから、お前は高校を出たら働いて貰わないと困る。女が大学に行く必要はない」
と言われたのだが、それが

「兄と弟は大学に行くから、お前は、中学校を出たら働いて貰わないと困る。女は大学も高校も必要ない」
に進化?していたかもしれない。

弟は両親の教育の成果が実り、現在独身で、母がぼけた身でせっせと世話を焼いている。





当時、不機嫌で神経質な担任のことを私はどう思っていたのか。怖れてはいたが、嫌いだとは思っていなかった。
母は「厳しくていい先生だ」と言っていたし、そうなんだろうと思っていた。

ところが、中学・高校と年齢が上がるにつれ、自分の本当の気持ちが分かっていった。

怖かっただけではない。嫌いだった。十分大嫌いだったのだ。いや、むしろ憎んでいた。
私の人間性に多くの影響を与えられたからだ。

クラスの決まりは他にもあった。突然できて、突然終わった決まりもある。

それは、「クラスの決まりごとを破った人がいたら、残り全員で一回ずつ叩いていい」というものだった。
今なら、間違いなく問題になるとんでも案だろう。仮にクラス百叩き法とでも名付けようか。

K君という男子がいた。勉強はできる子だったが、担任によく叱られていた。目をかけられている、というより目をつけられていると私は感じた。

クラス百叩き法が成立してすぐ、そのK君が第一の犠牲者になった。

今でも思い出す。教室の後ろのスペースで、一斉に彼を取り囲みクラス中が団子になっていた。子供は残酷だ。一回ならば合法的にぶてるのだ。

私はと言うと団子のすぐ外側でただ立ち尽くしていた。加わる気はなかった。ぶたれたら痛いのは、わざわざ教室で教えて貰わなくても体験済みだ。
とは言っても、皆を止めることも出来なかった。

私がずっと忘れられないのが、皆にぶたれた後、席に戻った後のK君の目だ。
「お前は、やらないと思っていたのに、裏切ったな。同じ目に合わせてやる」

彼は涙ぐみながらそう言った。怪我はしてなかったと思う。メガネの奥の目は涙だけではない、強い光を宿していた。
惨めさや悔しさ、憎しみ、それを何とか討ち果たそうとする意志だろうか。

何故、彼が私はやらないと考えたのか、それを裏切られたと思ったのか。それはもう誰にも判らないだろう。

「私はぶってないよ」と言ったが、彼は信じなかった。そして、宣言通りに私を第二の犠牲者にした。
やってないことをやったと言われ、やっていない証明はできなかったのだ。

不思議なことに、このクラス百叩き法はそれ以降執行されることはなかった。
これも何故だか判らない。「このくらいでいいだろう」と担任が判断したのかもしれない。誰かから話が洩れて、密かに問題になったのかもしれない。

いずれにしろ、もう誰も覚えていないだろう。

けれど、私はあの時の彼のあの目が忘れられないままに大人になった。
大人になった自分が、もしあの場に行けるとしたら、子供の自分とK君をただ抱きしめたいと思う。
「君たちが悪いんじゃないから…」と。


小学校4~6年生の3年間、同じ担任だった。5年時にクラス替えがあったが、たまたま同じ担任のクラスになった訳だ。

10歳ばかりの子供にはずーっと年上の恐い男の先生だった。常に眉間に深いシワを寄せ、不機嫌で神経質な人だった。
大人になって集合写真を見たら、せいぜい30代後半だろうと思ったが、自分の親と変わらない年配者には違いない。

昭和40年代,、少なくとも私の住んでいた所では、学校の先生は絶対な存在だった。親も子も反論するそぶりも見せられない。
当然、鉄拳制裁は朝飯前だ。

この担任も「前の学校では~」を前置きに、「悪さした子を殴ったら、教室の端まで飛んで行った」と強面ぶりを隠そうともしなかった。
「そこまでされないのをありがたく思え」とか「本当に怒らせるとそうなるぞ」という意味があったのかもしれない。
それって、難しい言葉で言うと脅迫だよね。

ともかく、この私のクラスは担任を専制君主に戴く鎖国的学級帝国だった。

クラスの決まりごとは幾つかあった。

その一つが、男子同士は君呼び、男女間と女子はさん呼びをしなければならない、という決まりだった。担任の鶴の一声である。
社会に出たら、名前を呼ぶ時はそうするからといった理由だったか、お互いを尊重し合わなければいけないという理由だったか。
いわゆるあだ名づけは禁止された。

これは少なくとも担任の目の前では、厳密に守られていた。

けれど、何処にでも何故か必ずいる。相手が不快になるような絶妙なあだ名をつける人間、自分より弱い子には尊大に振る舞う人間。
子供は残酷だし、そういうタイプの人間は子供の頃から見事に才能を開花させているから、そんな決まりを遵守する訳がない。

陰では弱いものイジメが当然始まり、当然続けられた。