FOR   HIROKI  ep12  H危うしっ(前篇) | ちゃんのブログ

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書かれていることは事実を元にしたフィクションです

小柄だが精悍な体つきのその男はもうすぐ40歳でもうすぐ3歳になる子どもがいると話していた。

広告プランナーというラフな職業のためか、ブルーのオックスフォードシャツととチノパンツでローファーを履いていた。

新宿の待ち合わせのホテルのラウンジは庭園に面していて緑が目に染みた。Hはコーヒーを頼みここに来るまでの途中で目についた古書店で買った演劇の本を読んでいた。

「待った?」上着とポーターの黒いビジネスバッグを左手に持ち、Hの前におかれたプラスティックの伝票ファイルを掴むと「行こうか」と言って出口に向った。

「腹減ったろう」せわしなく歩くとホテルのエントランスに待機しているバッキンガム宮殿の兵隊のような制服の黒人ドアマンに合図しタクシーを回すように指示した。

「うまい肉食わしてやる」銀座のその店につくまで男は今自分が手掛けているCMのことを話した。ビールや家電製品はHもよく知っているものでテレビでしょっちゅう流れていた。

「あ、そこでいい」領収書をしっかりもらっている男はこれから食べる高級ステーキの店まで経費で落とすのだろうか。

そこだよ、ここでその名をしらぬ者のないビルを見上げて男はHの腰に手を回した。

Hはなんの変哲もない白いTシャツを着ていて痩せたわき腹に太い指が男の感触をよりリアルに感じさせた。

 男は奥のボックス席ではなくカウンターに座り用意された極上の肉が焼けるのを待った。「生を二つ」霜がついて手に張り付くほど冷えたジョッキが運ばれた。グレイの毛足の長い絨毯が足音を消す。

店内は天然石を切り崩したような壁が迫り大理石のカウンターには無煙グリルのコンロが置かれていた。巨大なダクトが排気を吸って嫌な匂いは全くしない。幾何学模様の現代絵画が奥のテーブル席からよく見える高い場所を飾っていた。

網の上で焼くのは専属の女だが、飲み物を運んできたのは黒服の男だった。

「乾杯といこうや」まだ午後の明るい時間で眠りから覚めていないこの通りは閑散としている。タクシーから降りた時もすれ違ったのはサラリーマンばかりであと数時間後の化粧と香水と嬌声からはほど遠い素っ気ない灰色のビルの隙間に小さな空が見えた。

「今日は大勢のみなさんとご一緒ではないのね」

30代半ばの女は胸の大きく開いた赤いドレスを着ていて、長い黒髪を片側に寄せていた。肉は霜降りで女が返すより早く脂が火の上に落ちた。

「ポン酢をつけて召し上がれ」浅葱の浮かんだ小鉢に肉を沈めるとじゅっと音がした。極上に偽りはなく口に入れるととろけるようにうまい。

「若いのだからどんどん召し上がれ」

カップ麺とたまに以前バイトしていたレストランのまかないくらいの生活で飢えきっていたHの胃袋は本人の意思とは関係なく旺盛な食欲をみせた。

広告プランナーの男はJといい、言われてみればその名前のクレジットは雑誌のページで見たことのあるものだった。

Jはなんどか生ビールを運ばせて、Hがうまそうに肉を食べるのをみて上機嫌だった。女とのやりとりでJがここの上得意で融通がきき、今日も貸し切り状態で店のオープンを早めてもらったような話をしていた。

「ビールは?それともお肉をもっと焼く?」

半分も飲み切っていないビールはすっかりぬるくなっていたが、若いHの肉体は水分ばかりのアルコールよりも良質のたんぱく質を選んだ。「肉がいいです」しどけない雰囲気の女でステーキハウスには全くふさわしくなかったが焼き加減は絶妙だった。「Jさんは食べないんですか」反対にビールばかり飲んでいるJは口直しのスティックサラダに手をのばすくらいでほとんど肉を食べていない。「コレステロールが高いのよ、俺」「H君心配しないで大丈夫。この人一生分はお肉食べてるから」

H君は学生?」だいぶ食べてペースの落ち着いたHに女は話しかける。ペーパーナプキンで口の脂を拭ってHは箸を置いた。ジーンズにTシャツ姿で少年の面影の残るHはどう見ても社会人にはみえないだろう。

「いえ、卒業しました。今はなんというか…俳優修行中です」

ま、かっこいい、女は焼けたばかりの肉をHの小鉢に入れる。Jがぐびりとやって「お、そのフレーズいいね、それいこう」とHをグラビアに載せる話をようやく始めた。

きょうここにきているのはたまたま行きつけの酒場で一緒になったHJが気に入りファッション雑誌の広告の企画に採用するための打合せだった。

廉価な大衆向きの商品だったが掲載雑誌が都会的なイメージのハイセンスなものだったため、それなり紙面にするつもりだ、とJは言った。

「君はきれいな顔してるからいい写真になると思うよ」

そういうとJは再びHの腰に手を回した。Hの腹はどこにあの大量の肉が収まったのかと思えるほど平たく締まっていた。