「最後にみたいもの。それはあなたの笑顔」 | のんべんだらり

「最後にみたいもの。それはあなたの笑顔」

遅ればせながら、今日、ゴールデンウィークに放送があった映画「解夏」を見た。


あらすじはAmazo.co.jpから引用させてもらう。


東京で小学校の教師をしていた隆之(大沢たかお)は次第に視力を失うベーチェット病に冒されていることを知り、職を辞して故郷の長崎に帰ってきた。やがて恋人の陽子(石田ゆり子)が後を追って長崎に現れ、隆之の家に留まることに。病状が徐々に悪くなっていく中、彼は聖福寺で出会った林老人(松村達雄)から仏教の“解夏”の話を聞かされる……。
さだまさしが記した同名小説を原作に、『がんばっていきまっしょい』などの俊英・磯村一路監督が手がけた透明感あふれるラブ・ストーリーの秀作。いわゆる難病ものにありがちなドラマティックな描写を避け、淡々とした日常の中から、やがて視界を失う運命にある男と、それを見守る女の、焦燥と無常観の果てに導き出される慈愛を描出していくあたりが秀逸。キリスト教的風土と仏教の教えも違和感なく同居し、またそこに説教臭さは微塵もなく、ごく自然に心に染み入る構成になっているのもすがすがしい。(的田也寸志)


原作を読んでいた私としては、何だか先が見えていて、ちょっと面白みにかけた。それは仕方ないことだ。


けど、これを見て思い出したことがある。


「僕の目になって欲しい」

そう隆之が陽子に言ったとき、自分自身の言葉を思い出した。

夫とお付き合いをしているころ

「私があなたにしてあげられることは何かと思う。何もできひんのとちゃうやろかとも思う。でも、これだけはいえる。あなたがしんどいとき励ましたげる。あなたが悲しいとき一緒にないたげる。あなたがうれしいとき一緒によろこんだげる。そんなことしかできひんけど、それなら私があなたにしてあげられることだと思う」と・・・。

夫はその数日後、(これは偶然だが)長崎に出張へ行った。そこから「速達」が届いた(この速達は私の今でも宝物だ)。そこにはこう書いてあった。

「僕は酔っ払いだから盲導犬にはなれない(つまりあなたの目の代わりになれない)。でも、ちゃみちゃんが言うように、僕も何かをしてあげたい。目ではなく、もっと違う何かをあげたい」と・・・。


きっと原作者さださんの気持ちの中に「僕の目になってください」の言葉の裏に「でも僕は陽子に何かをあげたいんだよ」って言っているような、そんな気持ちが伝わってきた。


心のつながり・人を思いやる心、そんなものを改めて感じさせてくれたようなそんな気がします。


「失明するまでが人生の行だねぇー。失明してしまえばその恐怖から解放される。つまりそれがあなたの解夏です。悲しく、切なく、つらい人生の行・・・」

そう言った僧侶・林さんの言葉も心に残る。


またラストシーン。

隆之が最後に見たかったもの。つまり愛する人の笑顔を最後にみたかった。それはきっとみんな一緒だろうなと思う。

そして「もう泣くな、陽子」

この言葉には「僕の行は終ったよ。解夏だよ。もう恐怖はなくなったんだよ。そして君は笑顔が似合うんだから、笑っておくれ。僕は君の笑顔が好き」という気持ちが込められているんだろう。

私もやっぱり最後は自分の好きな人の笑顔を目の奥に焼き付けておきたいと思う。


また私の中に貴重な言葉の宝物の箱が一つ増えたような気がする。

タイトル: 解夏