三国志でありながら呉の武将を誰も紹介していなかったので、ま
ずは呉の親分である孫権について書いてみる。
孫権は呉を起こした孫策の弟である。魏の曹操や蜀の劉備は孫策
・孫権の父親である孫堅と同世代のため、孫権は彼らより1世代下
の世代になる。兵法で有名な孫武の子孫と称してしるが、本当かど
うかは疑問。
兄・孫策は父の死後身を寄せていた袁術から数千の兵を借りて挙
兵し、たちまち江東(揚子江の下流沿岸)の地を平定して一大勢力
を築いた。しかし若くして病死してしまったため、弟の孫権が後を
継いだ。
兄・孫策による孫権評は「戦をして領地を切り取る事については
自分には劣るが、国を守り治めていく事については自分に勝る」と
の事で、つまりは守成の人である。そして曹操の死後、曹丕、劉備
に続いて帝位に上り、呉の初代皇帝となった。
これまで取り上げた武将に比べると孫権自身には派手なエピソー
ドは無い。しかし、呉の最大の危機である赤壁の戦いでは良く決断
し、名将周瑜を用いてその難局を乗り切っているし、その後も魯粛、
呂蒙、陸遜と言った名将を使い、また巧みな外交で魏や蜀と対抗し
て、後進国で人口の少ない呉の国を守りきった事を考えれば、非凡
な人物であった事は間違いないだろう。
孫権はまたかなり長命だった。先に書いたように、元々曹操や劉
備の子供の世代だったところへもってきて、70歳と当時としてはか
なり長命だった事から、三国時代の末期まで生きた事になる。
呉を守り育てた偉大な君主ではあったが、しかし長生きした事が
悪い面も表れている。
孫権の老耄が現れるのは、後継者としていた孫登が33歳の若さで
死んでしまった頃から始まる。後継者問題で家臣団に争いが起こっ
てもそれを正しく抑える事ができないばかりか佞臣を近付け、丞相
となっていた重臣・陸遜を処刑しする等、前半生の名君はどこへい
ったと言いたくなる様な暗君ぶりを発揮して、国を傾けた。ゆえに
「麒麟も老いては駄馬にも劣る」と言われたりする。