我輩は雄である       cerieta


ナンパ師の主人公、秋葉源蔵が徐々に人の道を理解し、進化して行く過程で、夢の中でプラトンに出会う。プラトニック・ラブとイデアの奥義を授かり。。。。。〈プライバシーを考えて、源蔵のphotoがメイン〉

 我輩は、女の娘に近づくには、今でいうアイテム(武器)が必要であると思ったのである。それは何もない時代に育ち、工夫することを学んだからであった。そして、いいことばかりを書いているが、米も買えない時期もあって、戦後のドサクサを経験していたのである。

 コスチューム、教養(物知り)、嘘、車、そして我輩の最強のアイテムはカメラだ。子供用カメラの富士ペットを卒業して、リコーのオートハーフSとヤシカエレクトロ35が主流になり、蛇腹式のポラロイドをサブとして、父親から貰ったマミヤフレックス( 1952年に発売された)6×6判二眼レフカメラでヌード写真にチャレンジをしたのである。
  
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意外と撮らせてくれたので、アルバムがどんどん増えたのであるが、ヘアヌードの時代ではなく、もし少しでも写ったらネガ、ポジは没収か巻の状態で渡された。だから自分で暗室を作り苦戦をしていたのである。
アルバイトをして、ニコンF2フォトミックs&43~86ミリ(日本最初のズームレンズで性能は、像が流れる、周辺光量が足りない等、今のレンズでは考えられないしろものだった)をカメラの太陽堂で買い、135ミリをヨドバシ(まだ1店舗)で買ったのである。自称カメラマンとしてデビュー。女のレベルが上がりハーフのモデルから外人モデル、芸能人の卵(今活躍中)まで撮れるようになって、ニコンは最強のアイテムになったのである。
 そのうち、堀内カラー(プロラボ)に出すとヘアヌードは芸術なので、思い切ったヌード作品が撮れるようになったのである。ムービーは、8ミリフイルムと映写機から、ビデオの時代になったのである。ビクターのポータブルVHSデッキ(10キロ)&ビデオカメラ(コード付きで1.7キロ)を購入。
 日立サウンドブレイクという番組が始まってから影響され、ビデオ(ヌード)に曲を挿入、それを武器に撮りためたのである。
80年代前後のCF(コマーシャル)は今より質のいい作品が多く生まれ、資生堂、サントリー、パルコ、等に粋なキャッチコピーが氾濫していった。
ビデオカメラはソニーの時代がやって来て(テープからデジタル)リードを続けていたのである。カメラもデジタル(キャノン、ニコン、ソニー)の時代がやって来て、我輩のデジカメは、ニコン、キャノンの一眼レフ、コンデジとビデオはソニーと決まり、フイルム時代のマミヤ67一式を下取りに出したら、26,000円で、ガックリしたものだ。メーカーは開発が大変だが我輩たちはとても感謝しているのである。


某美容雑誌


フイルム時代の遺産は、残念ながら価値がなくなった。


 我輩は、過去に人にいえない悲惨な経験があったので、潜在意識の中に女は怖いがなんとかなることを学んだのである。

中1のとき、友達の誘いでアメリカ人の娘(進駐軍の娘)に逢えるということで、代々木の米軍宿舎「ワシントンハイツ」に侵入したのである。
 ワシントンハイツ(今は代々木公園のオリンピック村)の簡単な柵をぬけ、飛び降りるとアメリカンガールの数人に遭遇したのである。
言葉がわからないが、我輩に指をさしてこっちに向かっている雰囲気が伝わった。危険を感じた友達は危機一髪で土手を登り助かったが、我輩は足をつかまれ引きずり下ろされ押さえ込まれたのであった。数人のギャルは米語で奇声あげながら、我輩のチンチンを揉み始めたのである。一人のギャルは前歯矯正の状態でキスをしてきたので、我輩の唇から悲鳴があがっていた。
 本物のヤンキーはやることがすごい、子供ながらSEXマシーンになって上に乗りベルトをはずそうとして我輩ともみ合いになったのである。恐怖心の中に心地よい感覚もあったが、このままではいけないと思いスキをみて行動に移した。諦めなければ必ず逃げ道があるのがこのときわかったのである。なんとかけ散らすことができ、ギャルたちに威圧を一瞬与えることができた。
 土手(高さ2m)まで全力疾走して逃げたが、まだ追いかけて来たので、我輩は土手の上から迫るギャルに、木の根っこを拾って腰をねらい投げつけると、見事にあたってギャルは米語で泣きながらぶっ倒れたのである。
ギャルたちの追跡が終わり、悪いと思ったが逃走に成功したのである。女の怖さを実感した最初の事件だったのであるが、ワクワクしたのが良くて、後の人生にかなり影響したと思う。

ワシントンハイツ跡地(土手が見える)

現在、オリンピック記念青少年総合センター

if このときアメリカンガールに身を任せたら、どうなるかな。今でも映画のような面白恐怖シーンとして心に残っている。

 この事件の数日後、級友からいい家庭教師がいるから、その先生の家(目黒方面)に遊びに行かないかと誘われたのである。我輩は指定された時間に大幅に遅れ、到着すると三人の生徒はすでに部屋にいて、今からローラースケートをやりに行こうということになり、取りあえず楽しく遊んだのである。それから映画館にいくと、なぜかバラバラに座らせられたのである。先生というやつは順番に我輩達にほほずりを始めたのである。何も抵抗することが出来ずになすがままにされて、その日の四人は無言で帰ったのである。
児童性愛者(ペドファイル)の家庭教師と名乗る男が 数日後、親に会いたいと自宅に電話がきて、仕方なく駅まで迎えにいったのである。(我輩は親に映画館の出来事は報告していなかったのである)家までの暗い道で、当然のようにほほずり攻撃がきた。我輩はかわしつつ、こいつはやはりやばいやつだと思ったのである。親にはいい家庭教師をアピールしながら、子供達に変態行為をする。いつの時代でもとんでもないやつはいるもんで、次の日学校でそんな話をしたり、我輩の知らない時間帯(部屋の出来事)の三人の話もすごかったので、それを聞いた級友(スパイ)は、家庭教師にちくったのだ。数日後に自称家庭教師からの手紙を級友から渡された。内容はねちねちしたもので最後に家に火をつけると書いた脅迫文だった。今なら大変な問題になると思うが、我輩達の時代は自分で片づけることが自然だったので、級友に「やるならやれよ、殺しに行く」と伝えたら、それから何も連絡がなくなり変態からの攻撃はうまくかわせるようになったのである。


 当時14才、親がアパート経営をしていて、銀座のクラブのお姉さんが入居していたので、よく可愛がってもらったのだ。パトロンの車で兄妹を六本木のアマンドや、飯倉のニコラス(ピザ屋)に連れていってもらったので、我輩の人生に色々影響を与えてくれたのである。(なぜ、男は女にだまされるのか、そしてだますのか) 戦後からの復興期のど真ん中に育つといろんな経験をするもんで、大人の世界を知らないで行ったが、ピザのニコラス(東京アンダーワールド、角川書店)は怖い人達のたまり場だったのである。もちろん、今は違って老舗のピザ屋として営業している。ピザしか目に入らなかったが、人間模様を感覚と本能で感じて、我輩は女に騙されないようにこころがけたのである。

 17才のとき、親を騙してホンダS600(四輪のスポーツカー)を買ってもらい、無免許で(軽免は16才のとき取得)乗り回していたら、誕生日前にパトカーに捕まり、免停をくらったのである。

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教会は裏に移築   (91年撮影)
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ラフォーレの他に表参道の教会もいい感じだった。

原宿、ラフォーレが教会だったころの隣りに、ドライブイン「ルート5」があり、原宿族のたまり場になっていた。
17才の我輩は大人たちの真似をしたくて、「ルート5」の近くに車をとめて様子をうかがうと、リッチな若者たちが「ルート5」から明治通りを左折して竹下通りに入り原宿駅前を通り表参道から明治通り、そして「ルート5」の駐車場に入りまた同じことを何回も繰り返していた。目立ちたい若者たちで、アメ車を駆って女を乗せながら楽しんでいたのである。
 我輩も女友達を乗せて、あこがれていた「ルート5」デビューの日がきた。無免許運転でこの日も警察を気にしながら駐車場に入ったのである。
 外車が多い中、緊張しながら店に入ると場違いな雰囲気が漂ったが、大人ぶってごまかしたのである。同じような子供たちもいて、アメリカンを満喫していた。先輩たちの会話を聞いて、原宿族に触れていたのである。
 我輩も「ルート5」から竹下通り上りコースを何回かやってみたが、あまり好きになれなかったので、この遊びは終ったのであった。
 まだ、暴走族がない時代なので、自然に車のグループができ、我輩は年上のグループに連れていってもらったりしていた。CDCJ(自動車クラブ)のラリーをお手伝いしたり、ガソリンスタンドにたまってから、新宿にくり出して遊んでいたのである。



我輩は雄である (2) フーテン
つづく。。。