マツモトアキノリの・・・・「感動した!!!」 -4ページ目

ホットわらび餅

梅苑公開のニュースを耳にしたので、2月25日に、北野天満宮まで足を伸ばした。

菅原道真の命日を偲ぶ「天神さん」が開催されていたこともあり、獲物に群がる働き盛り蟻のように、ぞっとするほど人がいた。

場末のスナックみたいに胡散臭い屋台が軒を連ね、口々に呼び込みをしている。

彼らの一言一句に注意を向けると、滑舌が酷く悪く、話の内容は、賞味期限の過ぎた麸菓子のようにスカスカだった。

職業柄、そういうことが気になるのか、元来持ち合わせている意地悪な性格が影響しているのか、理由ははっきりしないが、とにかく僕はそう思った。

ただ、空っぽになった胃の悲鳴をやり過ごすことはできず、僕はニンニクパウダーの効いた焼きそばと、滑らかなアンコがたっぷり入った回転焼きと、ドラえもんの手ほどの大きさはある豚まんを食べた。

そして、湯にくぐらせた餅にきな粉をまぶした「ホットわらびもち」を、胃に流し込んだ。

高級な肉の油が口の中で時間をかけ溶けていくような、心地よい食感がした。

わらび餅は冷たいより、温かい方が美味しい。


味噌汁やカレーライスと同じレベルで・・だ。

ニーチェの名言集に「わらび餅は冷たいより、温かい方が美味しい」と、なぜ書いてなかったのだろう。


このわらび餅を道に落としたら、蟻がやってくるのが先か、蟻のような群衆がやってくるのが先か、なんだか試したくなった。



豆乳鍋とセンティネルの戦い

豆乳鍋を食べた。

豆乳と豚肉と白菜と舞茸という、豆乳鍋が豆乳鍋足らしめる必要最小限の食材が
入った簡素な豆乳鍋だ。

ホワイトチョコを思わせる甘味が口に広がり、その後、大豆の深みが喉を占拠する。

森の中で何十年も忘れられた寂れた井戸のように深く、そこに一度落ちたら、次に出会う時は白骨化した状態に違いない。

そんなことを考えたら、せっかくの豆乳鍋が不味く感じられ、UNO でリバースカードを出された時ほどの驚きと一緒に、胃液を含んだ豚肉や白菜達が喉の途中まで顔をのぞかせた。

そして「こんにちは」でも「こんばんは」でもなく、「ただいま」と言った。

そんな招かれざる食材達を、僕はもう一度喉の奥へ押しやり、二度と戻ってこないように、ご飯とお茶を一緒に送り込んだ。

マトリックスのマシーンシティが、センティネルをザイオンに送り込んだ時のように、大量かつ絶望的な量を・・だ。

おかけで僕の気分は幾分好くなり、ネオのような救世主が対抗してくる雰囲気は微塵も感じなかった。



「おこわ」のもつ可能性

1週間に1度の楽しみがある。

それは、休日前の狂信的な深酒でも、ドラマ「運命の人」で真木よう子さんから溢れだす艶かしい表情を凝視することでも、動物園のキリンが巨大な舌で柵を舐め回すのを観察することでもない。



「おこわ米八(よねはち)」の弁当を食べることだ。


近鉄・京都駅構内にひっそり店を構える
おこわ専門店に、僕は毎週日曜日に必ず立ち寄る。

SMAPの「青いイナズマ」をカラオケで歌う時に「get you」の歌詞を「ゲッチュー」と発音するくらい、必ずだ。

ちなみに僕は「get you 」の箇所を、一緒に来ているメンバーに叫んでもらうので、ちゃんと発音したことはほとんどない。

あの頃の木村拓哉さんは、飛ぶ鳥が落ちて自ら熱を帯びた網に寝転がり、焼き鳥としての人生を享受する勢いがあった。

おそらく木村拓哉さんに米八のおこわ弁当を差し上げたら、「maybe?」・・・
ではなく・・おそらく舌で鼓を連打されるのでは、と思う。


アメンボの水掻き

環状線の福島駅から、菜の花が茹であがるほどの僅かな時間を歩いたところに、「mugi」という店名の純喫茶がある。

ゆったりしたジャズとサラリーマン二人の語気の強い話し声がBGM として流れているお店で、そこで酸味の効いたホットコーヒーを飲んだ。


このお店があるビルの五階で、あと30分後にナレーション収録の仕事がある。

さほど面識のない方からいただいたお仕事なので、アメンボが水面を歩くほどの微かな緊張感があり、それをホットコーヒーでほぐしている。

もちろん酸味が効いていること以外に、コーヒーの味を満喫する余裕は蟻の眼球ほどもない。

「逃亡者」のハリソンフォードみたいに逃げ出したい衝動に駆られる。

僕にとってアメンボは手強い存在なのだ。

ただ、仕事前に感じる嫌悪にも似た緊張感を、僕は嫌いではない。


冷めきって粘土みたいな味がするコーヒーを胃に流し込み、僕は時刻場に行く前に、何かの儀式のようにトイレへ行った。







誘導線をつけるべきか

ここ1週間ほど、毎日「自炊」している。

大学生になるまでお湯を沸かすこともできない、いわば「箱入り男子」だった17歳のかつての僕は、34歳の今の僕を見て、突然変異を起こしたのかの目を剥いて驚いていることだろう。

黒髪眼鏡で武装した、いかにも真面目そうな青年が、夏休みをはさんで、金髪レーシックで自信をみなぎらせて登校してくるような変化幅ではないからだ。

ちなみに料理を始めたきっかけは、村上春樹さんの小説「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」の主人公が、胃拡張した図書館のレファレンス係をしている女子にご飯を振舞うシーンが、なぜだか僕の心を打ったからだ。

西武のおかわり君なら、バックスクリーンに楽々ボールを運んでしまうくらいのレベルで・・・だ。

とにかく僕は、本をデジタルに変換するという意味の「自炊」ではなく、料理を自分で作るという意味での自炊をしている。

唯一の不満点は、野菜を思い通りに切れないこと。

遺伝子操作のような最新テクノロジーを駆使して、角切りや千切り用の「誘導線」を野菜に刻みこんでおけば、それに沿って包丁を入れるだけなので、随分僕の不満点は解消される気がした。

ただ「誘導線」が刻まれた野菜が、畑で収穫を待っている姿を、あまり見たくなかったし、気の毒に思った。


料理を食べ、後片付けが終わった時、アルバム「フォトジェニック」で伸び伸びと歌い上げていたsalyu が、歌うのをパタリと止めた。













海ガメの嘘泣き

チョコレート売り場で、大学生らしき男女が、鼻息を荒げた海ガメのように、こんなことを話していた。


「チョコレートが1000円なんてありえなくない??」



なるほど。

そんな意見も分かる気がする。



ところで、僕の友人曰く「金額は価値で決める」そうだ。

1つ1000円のチョコをプレゼントしたことがきっかけで、いつもより会話が弾む。
笑顔が増える。新しい味に出会える。

それだけで大満足だと友人は言う。

それを高いと思うか安いと思うかは、ひとそれぞれだ。

そして、亀男くんと亀子さんは、何を求めて、バレンタインにチョコレート売り場に来たのか?

色んな理由が挙げられると思うが、概ね「プレゼントする人に幸せになって欲しい」と願っているのではないか??

そのチョコを食べたり、プレゼントした相手から感想をいただいた後ならまだしも、「チョコは1000円もしないものだ」という観念が頭を支配してばかりで、楽しい未来を想像する余裕が幾分欠けているのではないか。

この会場に来た以上、心の中で思うだけならまだしも、口に出してしまっては、チョコをもらう相手が気の毒だし、僕だったら安物のマシュマロをつけて、受けとるやas soon as 丁重にお返しするだろう。


今、どこかの海岸で、産卵中の海ガメが涙を流して悲しんではいないかと、ふと思った。


ps.海ガメが産卵中に涙を流すのは、痛みに堪えているからではなく、体に貯まった余計な塩分を排出しているだけだそうです(汗涙)


天神橋筋商店街

僕にとって、大阪の天神橋筋商店街を歩くことは、多大な集中力を要する荒行と呼んでも過言ではない行為だ。

小学3~4年生が全力で走り幅跳びをした距離ほどの横幅しかない道を、自転車が全速力で走り抜けていく。

周囲への注意力が牛のミスジほどもない人達が、スコールのように前触れもなく
立ち止まる。

僕は、そんなスコール人や自転車人を、最大限の集中力を払って避けながら歩を前に進めるのだ。

途中、二度見三度見の誘惑に抗うことができないほどの美人が店員を勤めるケーキ屋さんに、僕もちらりと目をやる。

ガールフレンドの喜ぶ顔が見たくて、その店でケーキを買った男性の大半は、ほんの僅かな時間だけ、ガールフレンドの存在を忘れてしまうのではないかとさえ
思うほどの美しい人だ。

もし天神橋筋商店街を闊歩する機会があったら、ぜひ御覧いただきたい。


冒頭で、天神橋筋商店街を歩くことは「荒行だ!」と表現したのは、明らかに過言であった。

掲示板

僕の住むマンションの一階に、掲示板がある。

多大なるスペースを確保するわりには、役割は猫の額ほど小さな掲示板で、僕は毎日出かける時、それに嫌悪の眼差しを向けていた。

うちの掲示板がデジタル化するのは、アメリカ軍が沖縄から出ていくよりも先の話だろう。

そんな掲示板に、行き先を失った年賀状が貼り付けられていた。

そして、それを受けとるべき人間は、まぎれもない僕だった。

バレンタインデーで街がざわつく2月中旬に、年賀状くんは「happy new year」と陽気な文字を掲げている。

真冬にホタルが飛び交うことは歓迎されても、バレンタインデーに年賀状が届くことは、とても歓迎されるものではない。

ただ、送り主に返事を書かずに、のうのうと元スマッシング・パンプキンズのジェームス・イハの音楽に耳を傾けている場合ではなく、いっこくも早く詫びを入れなければと思った。


僕は掲示板のことを少し好きになった。

奈良漬け

ハイネケン、ラガー、ヒューガルデン、デュベル、マッカラン・・・

色んなお酒が渾然一体となり、二日酔いに苛まれている。

まるで自分が奈良漬けにでもなったような気分だ。

ただ、とても食えたものではないので、その点において奈良漬けの方が、僕より幾分価値があるように思う。

ちなみに「自分が奈良漬けにでもなったような気分だ」という表現は、漫画「課長 島耕作」から拝借した。

先日、待望の「漫画喫茶で漫画を読みふける」という長年の夢(?)を叶え、その時に読んだのだ。

僕が訪れた漫画喫茶は、中流ビジネスホテルのロビーのようにさっぱりしており、穏やかな時を刻んでいた。

そこにいる誰もがゆったりと体を動かし、サザエさんのフネさんみたいに優しい声で何かを話していた。

そこで烏龍茶を舐めるように飲みながら、「課長 島耕作」を読んだのだ。

数年前までコオロギの涙ほども興味をもてなかった「課長 島耕作」に、没頭した。

ある女性が島さんを誘う時に「次のジャックダニエルは、もう少し静かなところで飲まない?」と呟いたシーンに
心奪われ、いつか自分も同じ台詞を口にしたいと思った。

そんな素敵なシーンを経験できるなら、もう一度、「奈良漬け」みたいな気分になるのも悪くないと思う。


ニック・デカロ

大学時代からの知り合いで、シンガーソングライターとして活躍中の二村敦志氏のインタビュー記事を読み、ニック・デカロに興味をもった。

二村氏は、良質な音楽とモエ・エ・シャンドンを偏狭的に愛する男で、口を開けば猥談が機関銃のように忙しく飛び出すような人間だが、インタビューは彼の音楽的な側面にだけ光を当てていた。


話を戻そう。

ニック・デカロは、1970~1990年代に活躍したアレンジャーで、肥満が原因と思われる心臓病で、今は天国での音楽活動を主な仕事にしておられるミュージシャンだ。

彼のアルバム「イタリアン・グラフィティ」の冒頭を飾る「under the jamaican moon」が、ゲゲゲの鬼太郎に出てくる「ぬりかべ」ほどの大きなスピーカーから流れてきた瞬間、僕の瞳孔は虚をつかれた猫のそれのように見開いた。

穏やかな雲が薄く空を覆った、日曜日の朝のような音楽だった。

鼓膜を天女がくすぐるみたいに、心地よかった。


今、ニック・デカロは、この音楽を聴かせて、どんな天女にラブコールを送っているのか知りたくなった。