マッカビ・テルアビブ93 | Tresors de Cedric

マッカビ・テルアビブ93

$Tresors de Cedric ~和訳は、俺様の宝物たち~

マッカビ・テルアビブはイスラエルのクラブチームで、国内リーグ・カップ戦ともに最多優勝を誇るイスラエルを代表する強豪クラブです。1906年にリション・レジオン・ヤッファと言う名称で創設し、1910年に現在の名称になります。イスラエルは一時期AFC(アジアサッカー連盟)に加盟しており、AFC加盟時代時代にはアジアクラブ選手権に2回優勝。UEFAチャンピオンズリーグ初出場は2004/05シーズンです。

イスラエルのサッカー事情は、1956年にアジアサッカー連盟に加盟し、1970年ワールドカップ・メキシコ大会にアジア代表として初出場します。ですがアラブ紛争(パレスチナ問題等)により周辺アラブ諸国との関係が悪化し、アラブ諸国(他には、インドネシアや北朝鮮や中国)を中心としたボイコット(対戦拒否・大会参加拒否)が激化し、1973年10月6日に第四次中東戦争が起こると、もはや対戦不可能な状態に陥ります。

翌年のイランで開催されたアジア大会のサッカー競技にイスラエル代表は出場しますが、大会では1次リーグ最終戦で日本を3-0で破り、2次リーグへ進出したますが、2次リーグではクウェート・北朝鮮が対戦を拒否。結果的にイスラエル代表は、この2つの不戦勝とビルマ(現ミャンマー)戦の1-0での勝利で決勝まで勝ち上がる事になります。

テヘランにあるアリアメールスタジアム(現アザディ・スタジアム)に10万人の観衆を集めた決勝では開催国のイランと対戦し、30分にイランのアデルハンのシュートをイスラエルのDFシュムが自陣ゴールに蹴り込んでしまい、結局このオウンゴールで0-1で敗れ(イランはアジア大会のサッカー競技で初優勝)結果的にこの試合が、AFCとしての最後の試合となります。

イランでのアジア大会期間中の1974年9月14日・イランの首都のテヘランでAFC総会が開催され、イスラエルのAFC除名が正式に決まります。AFC除名以降のイスラエル代表は前代未聞の"地域連盟未所属"のまま活動する事になり、ワールドカップ予選においては1970年・1974年・1978年にはアジア・オセアニア枠へと組み込まれたものの、1950年・1954年・1966年・1982年にはヨーロッパ枠に組み込まれ、その後、どう言う訳かオセアニアサッカー連盟(OFC)の暫定メンバーとなり、1986年・1990年にオセアニア予選に参加しますが(豪州やニュージーランドのある)遠方への遠征を強いられる事となりました。このためイスラエルサッカー協会は、かねてから欧州サッカー連盟(UEFA)への加盟を希望していて、これが認められたのは1992年からです。

このチームでの著名な選手は現在、イングランド・プレミアリーグのポーツマスに在籍する、現・イスラエル代表のDFのタル・ベン・ハイムのデビューチームです。彼は身長は180㌢とDFとしては平均的ですが空中戦にはめっぽう強く、本来のセンターバックだけでなく、サイドバックもこなすユーティリティー性をもつ器用な選手で、その才能からマンチェスター・ユナイテッドや、チェルシーもオファーを出した程の逸材です。

最後にテルアビブはイスラエル屈指の国際都市で、首都はエルサレムですが、実質上の首都はこのテルアビブなのです。