こんにちは。
笑いと癒しの音楽クリエイター、セシリアみつよです。
『無音の調べ 433 ①』はこちらです この記事
私は伏見稲荷が、近場の自然では結構好きです(イヤンな箇所もあるけど)。
一人で歩きに行ったらあまり何も考えずに、小川のせせらぎ、鳥の声、木々の間を渡る風の音に耳を傾け、頭はリラックス、聴覚に集中します。
鳥居のいっぱいある方じゃなく、千本鳥居からピュッと小さい横道を逸れた所に『十種神宝神社』があります。
そこをもっと奥に行けば、ちょっとしたハイキング…にしてはしんどい所もあるけど、観光客が通らない道があります。
そこで育ちすぎたタケノコを見てはプッと吹き出し(めっちゃ長いタケノコ)、ウグイスの声を聞いてはホッコリし、そうしている時に音楽が降りてきました。
風が渡る音に乗ってフルートの音でメロディがやって来ました。
「ええ曲やん」と思ってたけど、伏見さん下山して、人ごみの中にいたら、忘れてもた。
意味ないし。
し~んとした所では、降りて来る音楽は頭で鳴ってますが、それはごく小さい繊細な音です。神経集中しているのもありますし。
でも、色んな音がしている中に放り込まれると、集中力が散漫になって、どっかいってしまいました。
だから私は家ではよほどでない限り、CDも聞かないし、TVも見ません。
何もない空間が好きです。
時計のコチコチいう音、冷蔵庫の音、クーラーの音、PCの音…。
それすらない場所最高ですけど、防音室が一番近いかな。
そんな中で耳を休めるのは、頭を休める事に繋がるように思います。
外国の事はよく知りません。外国のこと「も」か。
でも古代の大和民族たちは、そこここに「大いなる存在」を見て、「やおよろずの神」という考えに至ったのではないでしょうか。
自然の中のちょっとした事から、インスピレーションやメッセージを受け取って来て、それが全然不思議でもなく、ごく自然の事として何千年とやってきたのかな…と思います。
まぁ無音はムリとしても、日本では古来《静けさ》というのに対して、独特の美学があります。
例えば、『ししおどし』。
京都の料亭とかで「かっぽ~ん」という、竹の筒に水が滴って、傾いて音が鳴るヤツ。
『水琴窟』
昔のトイレの外に水盤が置いてあって、その下に空洞を作っておいて、水を使って水がそこを流れて、えも言われん水の音がする、あれ。
し~んとした所に、1音2音音がして、余計に静けさを強調するみたいな。
そうやねん。
無音室=静けさ やないねん。
無音室ではかえって体内の音を聞いてしまうし、澄んだ音を聴くだけで、静かやと思ったりするねん。
そう思うと、大和民族の音に対する感覚って、すごいなと思います。
まだまだ研究の余地のある分野です。
つづく
笑いと癒しの音楽クリエイター、セシリアみつよです。
『無音の調べ 433 ①』はこちらです この記事
私は伏見稲荷が、近場の自然では結構好きです(イヤンな箇所もあるけど)。
一人で歩きに行ったらあまり何も考えずに、小川のせせらぎ、鳥の声、木々の間を渡る風の音に耳を傾け、頭はリラックス、聴覚に集中します。
鳥居のいっぱいある方じゃなく、千本鳥居からピュッと小さい横道を逸れた所に『十種神宝神社』があります。
そこをもっと奥に行けば、ちょっとしたハイキング…にしてはしんどい所もあるけど、観光客が通らない道があります。
そこで育ちすぎたタケノコを見てはプッと吹き出し(めっちゃ長いタケノコ)、ウグイスの声を聞いてはホッコリし、そうしている時に音楽が降りてきました。
風が渡る音に乗ってフルートの音でメロディがやって来ました。
「ええ曲やん」と思ってたけど、伏見さん下山して、人ごみの中にいたら、忘れてもた。
意味ないし。
これ、タケノコやねんで。笑けるやろ
し~んとした所では、降りて来る音楽は頭で鳴ってますが、それはごく小さい繊細な音です。神経集中しているのもありますし。
でも、色んな音がしている中に放り込まれると、集中力が散漫になって、どっかいってしまいました。
だから私は家ではよほどでない限り、CDも聞かないし、TVも見ません。
何もない空間が好きです。
時計のコチコチいう音、冷蔵庫の音、クーラーの音、PCの音…。
それすらない場所最高ですけど、防音室が一番近いかな。
そんな中で耳を休めるのは、頭を休める事に繋がるように思います。
外国の事はよく知りません。外国のこと「も」か。
でも古代の大和民族たちは、そこここに「大いなる存在」を見て、「やおよろずの神」という考えに至ったのではないでしょうか。
自然の中のちょっとした事から、インスピレーションやメッセージを受け取って来て、それが全然不思議でもなく、ごく自然の事として何千年とやってきたのかな…と思います。
ジョン・ケージが『無音室』に入った時の事をこう言っています。
『二つの音を聴いた。一つは高く、一つは低かった』
エンジニアにそのことを話すと、
『高いほうは神経系が働いている音で、低いほうは血液が流れている音だ』
と言いました。
ケージは無音を体験しようとして入った場所で、なお音を聴いたことに強い印象を受けました。
『私が死ぬまで音があるだろう。それらの音は私の死後も続くだろう。だから音楽の将来を恐れる必要はない』
無音の不可能性をみたという認識が、後の「4分33秒」へ彼を導きました 。
『二つの音を聴いた。一つは高く、一つは低かった』
エンジニアにそのことを話すと、
『高いほうは神経系が働いている音で、低いほうは血液が流れている音だ』
と言いました。
ケージは無音を体験しようとして入った場所で、なお音を聴いたことに強い印象を受けました。
『私が死ぬまで音があるだろう。それらの音は私の死後も続くだろう。だから音楽の将来を恐れる必要はない』
無音の不可能性をみたという認識が、後の「4分33秒」へ彼を導きました 。
まぁ無音はムリとしても、日本では古来《静けさ》というのに対して、独特の美学があります。
例えば、『ししおどし』。
京都の料亭とかで「かっぽ~ん」という、竹の筒に水が滴って、傾いて音が鳴るヤツ。
『水琴窟』
昔のトイレの外に水盤が置いてあって、その下に空洞を作っておいて、水を使って水がそこを流れて、えも言われん水の音がする、あれ。
し~んとした所に、1音2音音がして、余計に静けさを強調するみたいな。
そうやねん。
無音室=静けさ やないねん。
無音室ではかえって体内の音を聞いてしまうし、澄んだ音を聴くだけで、静かやと思ったりするねん。
そう思うと、大和民族の音に対する感覚って、すごいなと思います。
まだまだ研究の余地のある分野です。
つづく