ライチにとって、イルヴァーナ渓谷はトラウマそのものである。過去2回、モンスターに追いかけ回された辛い経験があるからだ。
しかしライチは、懲りずにその地へ足を踏み入れた。
厨房師となった今、過去の弱い自分を乗り越える為・・・ではなく。
最早グリードルでは満足出来ないほどに上がってしまった釣りスキルと、もっと大物を釣り上げたいとする欲求を満たす為。
渓谷入口でマップを広げ、太陽の位置とカマロンがつけた赤い丸を確認する。
「えっと・・・こっちかな。」
北を向き、トコトコと歩き出した。
イルヴァーナ渓谷は、マップ上では広く平坦な土地に見えるが、実際は河岸段丘であり、急激な高低差によって土地は分断され、通れるルートは限られている。
その上、バルドスのような気性の荒いな動物や、コボルトやドワーフといった好戦的な亜人間が闊歩し、危険の色は更に濃く深い。
しかしライチは構わず、坂を下りはじめた。
「ふふふ・・・厨房師となった僕に、怖いものなんて怒ったシレーナさま以外に無いんだよ。」
自信たっぷりに、不適な笑いを浮かべながら。
程なく、行く手に大きなバルドス。後ろを向き、まだライチに気付いていない様子。
「バルドスか・・・お肉はとっても美味しいんだよね。ふふふ・・・さてと。」
そう言うと。ライチはくるっと、回れ右。
「さてと、逃げよっと。」
そして、一目散に逃げ出した。
・・・まあ、そんなもんだろう。
幾多の遠回りを経て、ようやくライチは湖へ到着した。
「えと、ここがカマロンさんが言っていた湖だな。えとえと、ポイントは・・・対岸の方か。よーし。」
ライチは勢いよく湖へ飛び込むと、対岸へ向けてバシャバシャと泳ぐ。程なく対岸手前にある大岩に着いた。
早速、釣り糸を垂らす。
と、すぐに浮きがピクピクッと反応。
「でやー!!」
気合一閃。釣り竿を力の限り持ち上げる・・・が、しかし。
動かない。張った糸が切れそうになり、慌てて力を緩める。
「うわ、わわ。これは大勝負になる予感だな・・・。」
四方八方に水面を切る釣り糸。泳がせる時は泳がせ、動きが弱まってたら竿を引くライチ。
一進一退の攻防の末。
「やったー! リバーマンテイル、げっと~!!」
岩の上で、両腕で丸を描いたぐらいの大きさの、平べったい魚が力無く跳ねる。
「よし、次いくぞー。」
魚を捌き、切り身を鞄に仕舞ってから、再び釣り糸を垂らした。
しかし、4匹ほど釣った所で、当たりがぴったり止まってしまう。
「うーん、枯れちゃったのかな。他のとこ行くかな。」
ライチは再び湖に飛び込み、ポイントを変える。着いた先は湖の対岸。カマロンの描いた赤丸が、その岸を囲っている。
釣り再開。程なく、魚がかかる。
「よーし、これも釣り上げてやるぞー!」
再び格闘を始めた。
持ち上げる竿と、持つライチの影は長く、薄く、消えかかっている。
空の色はオレンジ。時間は夕方、黄昏時。
この時、ライチは完全に忘れていた。カマロンが地図に書いた、一つの注意を。
「この場所は、夜に立ち入ってはいけませんぞ。」
帳が降り、黒い空。遠くでフクロウがホウホウと鳴く。
それでもライチは構わず、ランタンの灯りを頼りに釣りを続けていた。
と、その灯りが一瞬だけ揺れる。
ふわっと、本当に一瞬だけ。
その揺れに何かを感じ取ったライチは、ふと振り向く。
するとそこには、今まさにその棍棒を振りおろさんとする、男の姿があった。
ドゴーン!!
大きな音が、静寂の闇夜を打ち破る。土煙が上がり、土片があたりに飛び散る。地面にはクレーターのような窪みができ・・・その先に、間一髪でそれを避け、尻餅をついたライチが居た。
「な・・・なななな?」
驚いて声も出ないライチに、男は冷静に言い放った。
「わりゃぁ、ここが我らサイクスの縄張りだと知っとって踏み込んだんか?」
ライチは首をブンブンと振る。
「ほうか。そりゃぁ運が悪かったの。じゃあ身ぐるみ置いて、川に浮かんでもらおうか。」
サイクスはもう一度、棍棒を振り上げる。
ライチは荷物を掴むと、咄嗟に湖へ飛び込んだ。
「わーー! やっぱイルヴァーナ渓谷なんて大嫌いだー!!」
叫びながら、湖を泳いで逃げるライチ。
「こら待て、逃げるなわれ!!」
叫びながら、湖を泳いで追いかけるサイクス。
その泳ぎは、巨体に似合わず意外に早く。振り切れないと悟ったライチは、目に付いた地面に上陸すると、走って逃げ出した。
しかし相手も食らいつく。棍棒を肩に乗せ、叫びながら迫ってくる。
逃げる。追われる。逃げる。追いかけられる。
いつの間にか、地面は急斜面になっていた。どうやらライチは岩山へ登ってしまったようだ。
僅かな突起に足をかけ、猫のようにジャンプを繰り返し上へ上へ。
サイクスは棍棒をくわえ、ロッククライミングで追う。
ついにライチは頂上についてしまう。逃げ場が無い・・・と思った、その瞬間。
「うわ・・・うわわわわわ!」
いきなり、地面が動いた。同時に岩山がどんどん小さくなっていく。
下の頂上では、サイクスが悔しそうな仕草をしながら叫んでいる。
ライチは空を飛んでいた。
「うわー、凄い凄い!!」
見上げれば、満天の星と真ん丸い月。見下ろせば、高速で移動する朧気な地面。
顔に、風が吹き付ける。ライチは伏せながら、長くふわふわした草のようなものをしっかりと握りしめる。
羽ばたく音が、耳の側で鳴る。
そう。
ライチは、グリフォンの背に乗っていた。恐らく岩山の頂上で寝ていたのだろう。
グリフォンの機嫌は、すこぶる悪かった。
「うわーん! 助けてー!! 怖いよーー!」
急降下したり、キリモミしたり、回転したり。
グリフォンはライチを振り落とそうと、曲芸飛行を続ける。
ライチは振り落とされまいと、必死でグリフォンの背にしがみつく。
「降ろしてーーーー!!!!」
ライチの叫び声は、イルヴァーナの薄闇に吸い込まれ消えていく。
こうしてまた一つ、イルヴァーナ渓谷でのトラウマが増えたのであった・・・。
(第17章 完)