1872(明治5)年に横浜で起きたマリア・ルーズ事件がきっかけで、明治政府が娼妓解放令を発布したことは以前別の項でも書きました。同時に遊女屋は貸座敷渡世を願い出れば許可されることになり、遊女も自由意志であれば鑑札を渡すことになりました。つまり、明治政府は公娼を禁止するのではなく、公認することになったのです。

娼妓解放令直後の記録によると、川崎宿の飯盛旅籠33件と、平旅籠41件が遊女貸座敷渡世を願い出たとあります。こうして川崎遊郭は正式に成立しました。 旧旅籠の多くは堀之内を含む本町界隈でしたが、鶴見市場までをエリアとする川崎宿全体に妓楼が分布していたことから、まもなく風紀上好ましくないという世論がおこります。このため、1903(明治36)年に神奈川県から移転命令が出て、現在の南町が川崎遊郭になったのです。

川崎遊郭の入口(現在の小登呂橋付近とされている)には、“川崎遊郭大門口”と記された大看板が掲げられ、およそ100軒の遊女屋を抱える関東有数の遊郭になりました。折しも工業地として変貌しつつあった川崎の街と同様に大変な賑わいだったようです。

1918(大正7)年の「横浜貿易新報」(ローカル新聞)に連載された『工業に栄ゆる川崎町』は“大門あたりをブラついて見るならば、暮れ近く7時ころから来る遊客の大部分は、どてらに着流しや印半纏姿で三々五々と打ち連れては巫山戯(ふざけ)ながら遊郭に流れ込む”“遊客に比べると、娼妓の数が不足気味で、宵の口10時を過ぎるとすべての部屋がふさがっていた”と川崎遊郭の繁盛ぶりを描いています。

川崎遊郭の成立後、宿場時代に一番賑わっていた本町・堀之内界隈は一体どうなっていたのでしょう。多くの妓楼が南町へ移転しましたが、空き家を借り受けた者が無許可で営業を続けたところも多く、無許可故に免許料や税金も払わないことから“遊女と安く遊べる街”として労働者や兵士に愛用されていたようです。

大正末期から昭和にかけて、中央のモダニズムの余波もあり、川崎にもカフェーやダンスホールが流行し始めます。堀之内の通称“ちょんちょん格子”(いまのちょんの間)の一部もカフェーやバーに生まれ変わり、それまで私娼窟の遊女として辛酸を舐めていた女性たちは“女給”というモガに成り変わったのです。

昭和初期は、川崎の遊郭が最も賑わった時代で、軍需景気に沸く川崎は人口も急増し、娼妓の数も1000に届く勢いでしたが、1944(昭和19)年の「決戦非常措置要網」で、貸座敷のみならず芸妓置屋、カフェー、バーなど接客業は一斉に休業に追い込まれました。職を失った女たちは、挺身隊に送り込まれ、その一部は従軍慰安婦として戦争の犠牲になったのです。

そして、貸座敷は軍需工業の工員宿舎になったり、余った寝具は飯場に提供させられたのです。この時、無許可営業を行っていた堀之内の貸座敷は、無許可であることから、寝具の提供を拒む業者がいたのですが、軍は無許可営業の取り締まりをしないことと引き替えに寝具を要求したと言われています。つまり、警察が許可を与えなかった堀之内の妓楼は軍によって承認された格好になり、戦後の遊郭の復活にも影響を与えることになるのです。

それでは、戦後の遊郭、いわゆる赤線・青線時代については次回のお楽しみということで・・・