堀之内のお話は、年輩の方にはお馴染みだった“泡踊り”です。
堀之内が世界に誇ると言われている世紀の大発明“泡踊り”の起源については諸説が入り乱れています。なにしろネットどころか風俗本も新聞の風俗記事も無い時代ですから…。

風俗評論家の広岡敬一氏の著書によると「川崎城」の浜田嬢が編み出した技ということになっていますが、私のリサーチでは、「ハワイ」という南国風のトルコ風呂にいた薔薇嬢が生みの親なのです。いずれにしても、発祥地が堀之内で、発生が1969年だったことにおいては一致しています。

当時の新築トルコ風呂は、そのころの豪華絢爛ラブホテル建築ラッシュの影響もあり、なにかしらの特徴を持たせた作りが多く見られました。ラブホテルでは、回転ベッドや鏡張りの部屋なんていうのがは大流行したそうです。トルコ風呂は、基本的には「川崎城」のような和風造りでトルコ嬢は着物姿というのが主流でしたが、看護婦スタイルやスチュワーデススタイルなど、建物の内装にも女性のコスチュームにも趣向を凝らしたコンセプトトルコも制服好きの日本男性には大評判でした。

「ハワイ」は南国風の内装で、浴室にはヤシの木を配し、アクセサリーにビーチパラソルやビーチマットを置き、女性はムームー姿で接客していました。薔薇嬢は30歳代半ばの当時としては平均的なトルコ嬢だったようです。ある日、酒に酔った常連客が、行儀良く椅子に座って身体を洗わせてくれないので一計を案じ、浴室に飾ってあったビーチマットに横たわらせたのです。当時、“洗い”は、女性が服を着たままで行っていて、風呂から出たあと、別料金を確認してから、部屋を暗くしてベッドでの本番サービスに移行していたのですが、薔薇嬢はその流れを完全に無視しました。マットに横たえた客の身体を石鹸で洗っていたら、普段は“洗い”の最中には変化のない股間が見る見る盛り上がってしまったのです。つまり立っちゃったのです。それで、薔薇嬢も服を脱ぎ捨て「風呂場でHするもの良いかも…」とマットに仰臥している常連客の上に馬乗りになり合体行為に及びました。この瞬間こそ、単に新しい技の発見に留まらず、たとえ自由意志であっても、男性の性奴として蔑まれてきた女性に意識改革をもたらす重大な瞬間でもありました。

日本というのはHに関して一見進歩的なようでその実すごく遅れています。どこの戦場にも慰安婦を配置するくらいHの機会には事欠かないのに、どうも男尊女卑精神が色濃く反映してしまい、たとえ金のためだと割り切った女性であっても、Hのスタイルは男性本位で女性は受け身のマグロ状態でした。(最近の素人マグロ流行りも由々しき問題ですが・・・)

私説ですが、江戸の天下太平時代には、48手が生み出されるくらい奔放なHを楽しんだおおらかな国民性が、明治からの軍国主義で一変したのではないかと推察致します。戦時下では「いつ敵に殺されるかわからないから、早めに目的だけ達成しよう」という男性の身勝手で一方的でがさつなHが当たり前になっていました。(早飯・早糞・早Hが美徳だったんです!)

薔薇嬢は、蛍光灯の灯りも眩い浴室で裸身になり、しかも女性上位で腰をくねらせたのですから、さしもの常連客も度肝を抜かれました。これで目覚めた薔薇嬢は、その後の客ともビーチマットでの泡にまみれたHを行い、徐々に泡で身体を擦りあう前技を加え“泡踊り”の原型を作り上げたのです。以来、薔薇嬢は同店のみならず、川崎を代表する超人気トルコ嬢として連日予約札止めが続きました。

風俗評論家の広岡氏は、同じ1969年にオープンした「川崎城」を起源としていますが、この店にマットが置かれていたという必然性は薄く、どうやら完全義務づけの最初の店というのが正解のようです。

トルコ風呂が誕生した当時は、男性客の服を脱がせて→スチームバスに入れて→身体を洗い→ヒゲを剃り→シャンプーをして→ベッドで指圧マッサージを施すという健全でそれなりの技術を要したサービス業種でした。ところが、売防法施行後、客の要求が不健全な方向に傾くに連れ、『技術は売っても身体は売らない』がキャッチフレーズだったはずのトルコ嬢の意識も変化していったのです。特に“本番”を容認していた地域では、サービス料イコール本番料金という図式になり、本来の洗いや指圧のサービスがなおざりになっていました。前日の広岡氏も、“ヤルだけ”のトルコ遊びは非常に空虚で、風俗界の荒廃すら感じたと言っています。

ですから、“泡踊り”の登場が風俗ルネサンスとまで称されるのは、こうした背景があったからこそだと思われます。また女性の性意識の面でも、昔は相手が恋人であっても「された」「あげた」「奪われた」と受け身で被害者的に考える日本女性が、「Hは女性も一緒に工夫して楽しむ」という前向きなものに変わった点で多大な評価は当然のことでしょう。

さて、日本中の男たちを虜にして、はたまた女性の性意識にまで革命をもたらした“泡踊り”ですが、「川崎城」でサービスを義務づけた当初はまだ『マットを使う』と言う以外、適切な呼び名はありませんでした。最初は“踊り”というほどの動きはなく、ただ石鹸をまぶしたマットの上で女性上位で腰をくねらしていただけでした。

その後、短期間でいろいろな技が開発されて巷の話題になり、ついに堀之内のすごいサービスを一般誌が取材に来るようになりました。その時にマスコミが名付けたのが“泡踊り”だったのです。そして“泡踊り”のネーミングの元になった、物凄い技を堪能できる店で、トルコ史上に燦然と名を残した3店がありました。ラ・ドルフィンと乱と禅の前身「王宮」「王朝」「王将」だったのです。

では次回は、裏稼業の青線街から日本一のトルコ団地に見事な変貌を遂げた堀之内という街を掘り下げてみます。